【浅草①076】浅草橋場町

町番号:浅草①076

町名:浅草橋場町

読み方:あさくさはしばちょう Asakusa-Hashibachō

区分:町丁

起立:1713(正徳3)年

廃止:存続 「橋場」として

冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1966(昭和41)年9月30日まで「浅草」

現町名:台東区橋場一・二丁目、清川一・二丁目、今戸二丁目(入会地だった地域は除く)

概要:橋場村のうちに形成された町屋。1713(正徳3)年、町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数349軒(町方書上)。町内は上町中町下町に分かれ、寛政年中(1789~1801年)、下町には砂糖製法所が置かれていた。総泉寺大門先と山谷町続に飛地があり、それぞれ「浅茅長屋」、「山谷続屋敷」と俗称した。

嘗て、この辺りは「石浜」と呼ばれ、「橋場」はその内の小名であった。公式に「橋場」と称されたのは、この地に古くからあった総泉寺の記録によると、1591(天正19)年の頃からであった。1713(正徳3)年、村内は2分され、一部が町方に組み入れられ、橋場町が誕生した。村の方は「橋場町地方」と称し、1889(明治22)年の浅草区編入まで続き、その後、「地方橋場町」と改めた。町名はこの辺りの隅田川に橋が架けられていたことから起こったものであるというが、起源となっている橋は、諸説あるが、『江戸名所図会』によると文明年間(1469~1486年)に太田道灌が下総の千葉氏を攻めるために架けた橋とする説が最も有力なものとしている。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治初年、水塚用地と近隣の寺社地を合併。水塚は幕府が1789(寛政元)年に築造した洪水防止用の堤防台地。1872(明治5)年の戸数675・人口2,534(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。1891(明治24)年、石神井用水より南側の地方橋場町字元宿耕地のうち観音圦樋以南の地域を合併。

1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、一部が石浜町一~三丁目、今戸三丁目に編入となり、残余を浅草橋場一~三丁目に改編。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、一・二丁目の全部と浅草石浜町一・二丁目の各一部を一丁目と、三丁目の全部と浅草石浜町三丁目の一部を二丁目に再編。

撮影場所:浅草橋場町

撮影地:台東区橋場二丁目14番19号(橋場不動尊)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。