【浅草①077】浅草亀岡町
町番号:浅草①077
町名:浅草亀岡町 一~三丁目
読み方:あさくさかめおかちょう Asakusa-Kameokachō
区分:町丁
起立:1871(明治4)年3月
廃止:1932(昭和7)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」
現町名:台東区今戸一・二丁目
概要:江戸の長吏頭・矢野弾左衛門は徳川幕府より関東全域の被差別民(長吏・猿飼・非人等)支配のお墨付きをもらい、府内の長吏・猿飼(猿回し)とともにこの場所に住んだ。ただ最初からこの場所ではなく、江戸初期は日本橋尼店(現在の日本橋室町辺り)、その後、町域の拡大により浅草御門外の鳥越に、最終的には1645(正保2)年に山谷堀の北、浅草新町(現・台東区今戸周辺)に移転し、明治維新まで存在した「弾左衛門囲内」と呼ばれた地域である。『寛永江戸図』には「俗ニ新町ト云」と注記がある。
浅草新町(弾左衛門囲内)は溝に囲まれており、中央には南北を貫く往来があり、最南端には表門と番所、最北端には裏門と番所が設けられていた。町域は便宜的に3つに分かれており、南を「上町」、中央を「中町」、北を「下町」と呼んだ。上町には全関東の被差別民支配のための新町役所があり、そこが弾左衛門邸を兼ねていた(約740坪)。現在の東京都立浅草高等学校の北側である。往来を挟んで真向かいには今戸神社と配下の被差別民や非人を収容する新町牢(牢獄)があった。また、上町と中町の境辺りには西に出るための吉野町口、東に出るための今戸口があった。中町は特筆するものはないが、下町の最南端西側には白山神社が存在した。
隔離された地域のように感じるが、実際には一般町人の出入りも自由で、物売り、行商等かなり頻繁に出入りしていたようだ。また毎年9月20日頃に行われる白山社の祭礼はかなり大規模なもので、長吏・猿飼・非人たちだけでなく一般町人の見物客も多かったとされている。
最後の弾左衛門は1867(慶応3)年2月、「賎称廃止の嘆願」を幕府へ提出。1868(慶応4)年1月13日、幕長戦争に協力した功で手下65人と共に平民への身分引き上げが幕府から認められ、「弾内記」と改名(俗名に「矢野内記」も用いた)。そして1870(明治3)年12月、「弾直樹」へ改名。同年、莫大な資産を投じ東京府北豊島郡滝野川村にあった滝野川反射炉の跡地に陸海軍造兵司所属の皮革製造伝習授業及軍靴製造伝習授業御用製造所を開設し、アメリカ人技師チャールス・ヘニンガーを傭聘して洋式皮革・軍靴の製造を開始。しかし1871(明治4)年3月、明治政府は「斃牛馬勝手処置令」により賎民の牛馬処理権を廃止、さらに8月28日の太政官布告(解放令)により、賎民支配による皮革の独占で成り立っていた弾の事業は大打撃を受けた。
1871(明治4)年3月、斃牛馬勝手処置令をもって、浅草新町は「浅草亀岡町一~三丁目」と改称して起立。町名は町域内にあった亀岡八幡宮に由来する(案内)。1872(明治5)年の戸数348・人口1,676(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、今戸一~三丁目、吉野町の各一部に編入となり消滅。
なお、事業がうまくいかず、晩年は辛酸を嘗めた弾直樹は死に際に病床で「数百の靴工たちが全国に巣立っていき、製靴法を伝えていてくれている。だから私の本望は達したのだ」と語ったと言われる(1889(明治22)年7月9日死去)。当町は現代も他の追随を許さない、誇り高き靴工の町である。
撮影場所:浅草亀岡町一丁目
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