【麹町①012】有楽町

町番号:麹町①012

町名:有楽町 一~三丁目

読み方:ゆうらくちょう Yūrakuchō

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:存続

冠称:なし

現町名:千代田区丸の内三丁目の一部、有楽町一・二丁目の各一部

概要:戦国時代の大名織田有楽斎(織田長益)に由来。茶人としても名を馳せた有楽斎は関ヶ原の戦いの後、徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領(慶長年間(1596~1615年)(府志料))。その屋敷跡が「有楽原」と呼ばれていた。また、江戸開府期にはこの辺りまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、水辺地名の「浦原」、「浦ヶ原」から転じたのではないかという説もある。

古くは入江に沿った漁師町だったが、慶長年間(1596~1615年)の江戸城修築の時から曲輪内となり、武家地となった。大名小路の南端にあたる。 

有楽町成立以前は、後の一丁目にあたる地域には、木下延俊、浅野幸長、京極高知、奥平信昌等の大名屋敷があり、幕末は因幡鳥取藩松平氏、下総古河藩土井氏、上野高崎藩松平氏、摂津高槻藩永井氏、越前丸岡藩有馬氏等の上屋敷があった。後の二丁目にあたる地域には、古くは山内忠義、堀親良、竹中重利等の大名屋敷があり、幕末は阿波徳島藩蜂須賀氏、土佐高知藩山内氏の上屋敷と南町奉行所(1707(宝永4)年開設)があった。後の三丁目にあたる地域には、古くは水野忠胤、松平信一、九鬼守隆等の大名屋敷があり、幕末は常陸笠間藩牧野氏、備前島原藩松平氏上屋敷、阿波徳島藩蜂須賀氏、土佐高知藩山内氏等の中屋敷があった。

1872(明治5)年、一~三丁目が起立。同年の戸数186・人口652(府志料)。一丁目は万里小路家、中山家と、監軍本部、東京鎮台教導団、工兵営、工兵楽隊、軍法会議所等、陸軍省属地と商業会議所が、二丁目には東京府庁、日本郵船会、内外新聞社が、三丁目には日本倶楽部、大日本実業学会、内外新聞社、神宮教院、三井集会社等があった。

1878(明治11)年11月2日、東京府麹町区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麹町区に所属。1910(明治43)年、山手線が延伸となり、有楽町駅が開業。

1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環によって再編が行われ、一丁目が一・二丁目の各一部と丸ノ内三丁目の一部に、二丁目も一・二丁目の各一部と丸ノ内三丁目の一部に、三丁目が一・二丁目の各一部に編入となる(三丁目は消滅)。1933(昭和8)年に日劇、1934(昭和9)年に東京宝塚劇場が開場、劇場街と化す。また、毎日新聞社、朝日新聞社本社、讀賣新聞社有楽町別館が設置されたことにより、「新聞街」とも呼ばれた。1943(昭和18)年7月1日、東京都麹町区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。

1975(昭和50)年1月1日、住居表示の実施により、現行の有楽町一・二丁目となる。なお、当町は、1966(昭和41)年に住居表示の実施基準によって「有楽」に変更されそうになったが、マスコミ各社が猛反対したことによって「町」付きのままで9年後の住居表示実施を迎えた。

撮影場所:有楽町三丁目

撮影地:千代田区有楽町二丁目5番1号( 阪急メンズ東京)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。