反響

皆様、感謝申し上げます。

Yahoo!のリアルタイム検索やTwitterで反響や活用例等を見付けた場合、ここに上げさせていただくことにしました。


(=゚ω゚)ノ 今の若葉一丁目です。


(*´з`) 有難うございます。俗称は位置の判る資料が少なくて、特定できないところが多いんですよね…。


(*'▽') ここの首都高下では、ホームレスのおっさんが立派な家を築いてらっしゃる。もはやホーム「レス」じゃないぐらい。どんな状況でも逞しく生きる、それも江戸の一部かと思います。


(*´з`) シンプルに嬉しいです!


(=゚ω゚)ノ やまやは早く行った方がいいですよ!下の方、このサイトもっともっとご覧になって江戸町巡りを楽しんでください!


(^O^) そうなんです。「元入谷」、「中入谷」、「南入谷」です。


(^O^)/千駄木から駒込駅辺りまでのあの辺、いいところですよね。管理人も大好きです。


(*´з`) 番町は難しいんですよね~。機械的に番号で表す方がよっぽど分かりにくい…。勾配もきついから歩くのも七面倒臭いし…。


(*´з`) 楽しんでいただいて何よりです。本当のことを知っていただきたい!それだけなんですよね…。


(*'▽') 梅の季節です。是非とも向島へ。


(*´з`) そうなんですよ、今「春日」というと春日通りより西側になってしまっていますけど、もとは東側で、極僅かな地域だったんです。


(^O^)/ ありがとうございます!管理人も「素敵なインターネット!」に助けられてこれを作っていますよ!


(*´з`) おー、国際的な話になってきたぞ…。「まず、江戸という都市は明治に入って東京になってしまったからもう存在しない。だから江戸町を紹介するなら、本来は江戸期の町割りで編集すべきだが、このサイトは武家地や寺社地等を併せた明治中期の、拡張後の各町を基本として登載し、それ以前に消滅した町や俗称等を別枠で登載している。掲載範囲は江戸末期に「江戸内」とされた所としてあるが、その範囲内に存在した村は掲載しておらず、また村の小字であっても「町」と付くものは例外的に掲載した」。「江戸町巡り」管理者からのコメントとしては、「大江戸今昔めぐり」は多少間違っている箇所がないわけではないが、非常に頼りにしているアプリで、サイト制作には随分と利用させていただいた。「江戸町巡り」はかなり一生懸命に作ってはいるが、危なげな内容満載になってしまっているのは否めない。…誰かこれを英語で説明してやってください…。


(/_;) 浅草新畑町は、今はなき「蛇骨湯」があったところ辺りです。


(*´з`) 令和2年年末、皆さんあざーーーーす!そろそろ更新したいんですけど、愛車のママチャリがパンク、それに寒い!もうちょいお待ちを。


(*´з`) この翌週の「まむしのミュージックプレゼント」が荒井湯さんからの生中継でした。言問団子の娘ピノコも乱入。楽しい放送でした。


( `ー´)ノ 置いてけ堀(=本所南割下水)は現在の北斎通りです。大横川西詰から箕亀橋、久方橋、弥生橋、九重橋、若葉橋、千歳橋、松花橋、青芽橋、葉沢橋が架かっていました。橋跡には歩道にモニュメントが描かれているので是非ご覧になってください。

東詰から横十間川までには橋が架けられていなかったようですが、その部分は別称「錦糸堀」といい、錦糸町の名の起源となりました。

なお、本所北割下水は、現在の春日通りです。


( ;∀;) 下町は空襲で何もかもがなくなりました…。


(^◇^) 関西方面は当然ですが、江戸は岩槻の人の功績もあって栄えました!


(*´з`) 『御府内備考』に「往古浅草寺境内より当町迄松桜榎等の並木西側に在之候故、並木町と唱候由申し伝に御座候」とあるように、松・桜・榎の並木があったようですよ。


Σ(゚Д゚) お坊さん関係の方?!清浄華院の歴代法主の47人目「章誉了秀」と同一人物ですかね?文章は『角川日本地名大辞典』からほとんどコピペなもので…どうもすいません。


( `ー´)ノ 日蔭町、烏森町、一杯引っ掛けたくなる街です。


( ゚Д゚) 横町(横丁)等の頁は町の頁と比べて記事がかなり薄いので、近々色々調べて文章を載せていきます。すいません。


( `ー´)ノ その辺りが「ザ・市ヶ谷」なんです。


(^◇^) 江戸期、明治期に比べ、亀沢町はかなーり拡がりましたよ!


(^O^)/ 秋葉原駅から北へ向かうと、まだ昔のあの界隈が残ってる感じですね。


(^◇^) 読み方は『角川日本地名大辞典』によるものです。『角川~』は間違いがけっこうあるのですが…。


(^◇^) お役に立てて嬉しいです。


(*'▽') おいわさんといっしょ ツアーも是非ご覧くださいね!


(^O^)/ お役に立てて何よりです。他にもたくさん「保存メモ」してくれてありがとうございます。


(*'▽') 「浅草新平右衛門町」と名付けられたのは、1872(明治5)年からです。人口は同年調査です。


k(/・ω・)/ 総称なんですけどね。


(*´з`) 国際仏教学大学院大学のある辺りです。

( `ー´)ノ 両国駅を降りて京葉道路を渡って、馬車通りの方へ向かってください。


(*´ω`) 中途半端な感じになってすみません。番町の面倒臭さが伝わればそれでいいか!


!(^^)! 話題にしてくださって有難うございます!


(*´з`) 「霞ヶ関」は地名というより、省庁(特に外務省)の俗称として使用されることが多いため、「財務省があるのに裏なの?」という感覚になるんでしょうね。中世、奥州街道の関所「霞ヶ関」があったところが、江戸期の松平安芸守上屋敷と松平美濃守上屋敷の間辺り。それ以南が「霞ヶ関」と呼ばれていました(後の霞ヶ関一丁目)。財務省のあるところはそこからさらに南側なのであの辺りは「裏」ということになります。

「裏感」、「表感」は現代と違っているところがありますよね。神保町だって、靖国通り沿いは「裏神保町」、すずらん通り以南が「表神保町」。靖国通りは関東大震災後の復興計画の一環で造られた道路です。当時は「大正通り」と呼ばれていたそうです。それまでの裏通りを、道幅を拡げて、震災に対応できる大通りとしたことで、実態として裏が表になったための違和感です。


(^-^)管理人は父方も母方も元を辿れば京橋・八丁堀なんです。いいとこですよね。引用有難うございます。


(^◇^) 引用有難うございます。ただ、『東海道四谷怪談」は創作ですからね!!よろしければ「おいわさんといっしょ」をご覧ください。


(^ム^)  「いいぐら」なのに「いいくら」と読む人が多くて困ります。「しろかね」なのに「しろがね」と言ったり、「とりこえ」なのに「とりごえ」と言ったりするのと逆パターンですな。谷中の三崎を「みさき」と読むのとか…。そういうのどうにかしたいんで、平仮名の他にローマ字表記も載せときました。今後とも御贔屓に。


*\(^o^)/* そのとおりです!古石場川が直角に大横川に合流する部分の両側。25万7,900石余。


(-。-)y-゜゜゜ 隣町の愛宕下町になりますが、銘菓「切腹最中」ってまだ食べたことないんですよね。新正堂さんのサイトには「当店が「忠臣蔵」の起こりとなった浅野内匠頭がお預けになり切腹された田村屋敷跡にあり」とありますが、そこは井上遠江守正信さんのお屋敷ではないかと…。田村さん家は愛宕下大名小路より西のはず…。


(@_@;) 赤囲みの中の「深川」とある辺りが江東区立中の堀公園です。


(^u^) このお肉屋さんはいつも気になります。お弁当も美味しそうですが、焼鳥が堪りません!


(゜o゜) 管理人も文学部国文学科卒なのでやっぱりこの地は気になります


(*^_^*) 神田花房町の現在地、大体こんな感じでしょうか。


(^O^)/ そのとおりです。浅草阿部川町は、1936(昭和11)年に菊屋橋一・二丁目に編入となり消滅しました。しかしその浅草菊屋橋も1964(昭和39)年に、一丁目が寿一丁目と元浅草三丁目に、二丁目が寿二丁目と元浅草四丁目に編入となって消滅しています。


(@_@;) 読みについても極力気を付けて入力しています。浅草新谷町については、概要の2ブロック目にあるとおりです。 


(-"-) 『角川日本地名大辞典』の池之端仲町の項では、大槌屋は料亭ではなく、小間物屋とありますね。


(+o+) 素晴らしい!今の秋葉原は何だかよく分かんない町になっちゃいましたね…。


(*^_^*) 文化放送の南のブロック。気になる居酒屋さんの多い地区です。


(^-^) 豊洲の前は築地、その前は日本橋。魚河岸の移転によって町が活性化していけばいいですね。


(^_-) 江戸は、大坂の人たちの尽力によって成り立ったといっても過言ではありません。「難波町(浪花町)」以外にも、江戸には近畿由来の町名がかなりあるので、これからも是非ともお付き合い願います。


(*'▽') はい、一人でやってますよ~。ママチャリを転がして、スマホでパチリとやるだけです。ただ、作り始めてかなり経ちますが、なかなか完成しません…。江戸は実に深いです…。


<m(__)m> 有難うございます。今後とも是非御贔屓に…。