【浅草①001】浅草茅町

町番号:浅草①001

町名:浅草茅町 一・二丁目

読み方:あさくさかやちょう Asakusa-Kayachō

区分:町丁

起立:1617(元和3)年

廃止:1934(昭和9)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区浅草橋一・二丁目

概要:古くは「武蔵国豊島郡鳥越村茅原の里」といっていたが、いつの頃からか「浅草茅町」と称するようになった。寛文江戸図には「かや丁一丁メ、同二丁メ」の記入がある。

町名の由来は、隅田川の河口で茅原であったのに因んだものであろう。『御府内備考』には「往古武州豊島郡鳥越村茅原ノ里ト唱候由申傳、其後何頃ニ候哉茅町ト町名ト町名相附申候」と記されている。浅草橋御門を出てすぐ、日光街道の左右に一丁目が3ヶ所、二丁目が4ヶ所あった。古くからの商店街で、特に例年2月25日~3月2日に雛市、4月25日~5月4日に菖蒲人形市が立って、江戸の人形問屋として賑わった。一丁目には吉野屋(山田徳兵衛、吉徳)・池田屋・松坂屋、二丁目に久月等があり(買物独案内)、他に土人形屋・羽子板屋等もあった。

一丁目入口の西側に「日高屋」という絵馬屋があり、そこまでが浅草寺領で、日高屋は門番であったという。1718(享保3)年に類焼した際、一丁目の一部が火除地として収公され、1823(文政6)年に石置場所領地となったが、その代地を1719(享保4)年に二丁目裏道松平市正邸跡に給され、「浅草茅町一丁目代地」と称した。1786(天明6)年、先の火除地が旧に復し、1826(文政9)年に町域の一部が本郷六丁目の代地とされた。1828(文政11)年の家数217軒、一丁目代地の家数57軒(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、上述の2つの代地、第六天門前南方の河岸地を併合。1872(明治5)年の戸数200・人口911(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、浅草橋一・二丁目に編入となり消滅。現行の浅草橋一丁目、柳橋一丁目の各一部。

撮影場所:浅草茅町一丁目

撮影地:台東区浅草橋一丁目1番15号(浅草見附跡 神田川 浅草橋北詰西側)

002浅草上平右衛門町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。