【浅草①053】向柳原町
町番号:浅草①053
町名:向柳原町 一・二丁目
読み方:むこうやなぎわらまち Mukō-Yanagiwaramachi
区分:俗称→町丁
起立:江戸期
廃止:1963(昭和38)年12月31日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「浅草」
現町名:台東区浅草橋二~五丁目、鳥越一丁目
概要:1872(明治5)年、越後椎谷藩堀氏、日向飫肥藩伊東氏、越後与板藩井伊氏、肥前平戸藩松浦氏各下屋敷と近隣の武家地及び医学館が合併して起立。一・二丁目に分けられた。一丁目は公家大原重徳邸、越後椎谷藩主堀之美邸、日向飫肥藩主伊東祐帰邸、越後与板藩主井伊直安邸及び幕府の医学専門学校「躋寿館」等、二丁目は肥前平戸藩主松浦詮邸及び小屋敷。
町名は神田川を隔てて南側に「柳原」という地区があり、俗に「向柳原」、「向柳原町」と呼ばれていたことに因む。江戸切絵図にも「此辺一圓向柳原ト云」とある。同年の戸数278・人口901(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。
1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一丁目北側一部は鳥越一丁目に、二丁目の東北隅は浅草橋三丁目に編入となり、町域を狭めた。向柳原町二丁目に編入された松浦氏邸には、1632(寛永9)年に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、小堀遠州等に命じて造らせた回遊式庭園「蓬莱園」があった。惜しくも関東大震災で大部分が焼失し、今では当時からあった大銀杏が都立忍岡高等学校敷地内にその面影を残すのみ。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。同年、一部を神田区に編入し、東京都神田区向柳原町一丁目となる(神田区向柳原町には二丁目以降はなし)。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。その際、「浅草」の冠称を付す(明治期の地図に「浅草」の冠称を付しているものも存在する)。
1964(昭和39)年1月1日、住居表示の実施により、一丁目は浅草橋四・五丁目に、二丁目は浅草橋二・三、五丁目に編入となり消滅。現行の浅草橋二~五丁目、鳥越一丁目。
向柳原町(神田)も参照のこと。
撮影場所:向柳原町二丁目
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