【小石川②】雑司ヶ谷清土町
町名:雑司ヶ谷清土町
読み方:ぞうしがやきよとまち又はぞうしがやきよとちょう Zōshigaya-Kiyotomachi or Zōshigaya-Kiyotochō
区分:俗称
起立:江戸期
廃止:1869(明治2)年
冠称:「雑司ヶ谷」
後身:雑司ヶ谷町
現町名:文京区目白台二丁目
概要:雑司ヶ谷町のうちの俗称の1つで現・文京区に跨る部分。『雜司ケ谷音羽繪圖 : 嘉永新鐫』では「雑司ヶ谷清土村百姓町」と、『牛込小日向音羽町辺場末絵図』には「雑司ヶ谷清土町町屋」と、『大江戸今昔めぐり』には「雑司ヶ谷町自証院領」とある。1676(延宝4)年、御三家尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現清瀬市)に造られた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向かっての広い道(不忍通り)は、昔から「清戸道に登る坂」ということで「清戸坂」(きよとさか)といわれた。
江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。江戸への野菜供給基地として茄子の他、大根や青菜等を生産していた。特に味がよいと評判になった雑司が谷茄子は、江戸時代後半から大正時代の中頃まで持て囃されていた。茄子の栽培には下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていた。茄子はその用途が広いため需要も多く、胡瓜と並んで夏野菜の中で重要な地位を占めていた。大正時代の中頃まで伝統的栽培技術は引き継がれ、その後年毎に早く収穫出来る技術が開発されたことから、昭和の初めには種蒔きの最盛期は2月15日前後となった。文献によると当時北豊島郡に於ける茄子の作付け面積は約200haと記されているようだ。
明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、「平田牧場」といった。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には『官許の牛の乳』と仮名とローマ字で書かれていたという。
詳細は雑司ヶ谷町(北豊島)、雑司ヶ谷町(小石川①)を参照のこと。
撮影場所:雑司ヶ谷清土町
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