【南足立】堤外牛田耕地
町名:堤外牛田耕地
読み方:ていがいうしだこうち Teigai-Ushida-Kōchi
区分:小字
起立:1889(明治22)年5月1日
廃止:1930(昭和5)年12月31日
冠称:なし
後身:千住町大字曙町
現町名:墨田区堤通二丁目
概要:往古は「関屋の里」と呼ばれた地。現在の墨田区堤通二丁目の北部、旧綾瀬川 綾瀬橋南詰西側の、さらに隅田川側。もとは東京府南足立郡千住町大字千住三丁目の飛地で「字堤外牛田耕地」といわれた地域。「字堤外牛田耕地」は旧綾瀬川を挟んで南北に跨っていたが、朱引内に存在したのは南の方のみ。
小字までは不明だが、江戸期は千住三丁目飛地、1869(明治2)年からは千住宿北組飛地、1878(明治11)年11月2日以降は千住北組飛地、1889(明治22)年5月1日からは千住町大字三丁目字堤外牛田耕地といった。1931(昭和6)年1月1日からは東京府南足立郡千住町大字曙町、1932(昭和7)年10月1日からは東京府東京市足立区千住曙町。なお、『明細改正東京新図 』(1886(明治19)年)には「千住北組飛地」、『東京大震火災地圖 : 大正十二年』(1923(大正12)年)では「千住三丁目飛地字堤外牛田」とある。
本域の千住三丁目は現在の足立区千住三丁目と同じ位置であり、この堤外牛田耕地はかなり離れていたところにかなり大きな範囲で存在した飛地だったことが判る。
1934(昭和9)年6月1日に向島区隅田町二丁目の旧綾瀬川以北(足立区千住曙町35番地1号(足立区立曙町東児童遊園)付近)との土地交換が行われ、唯一朱引内に存在した南足立郡の町はこれによって消滅となる。なお、町域変更協議は東京市編入以前から両町によって進められていたようだ。
『大江戸今昔めぐり』では都道461号を少し超えた部分までの隅田川沿いに「千住三丁目」とあり、嘗てはかなり広範な地域が朱引内に喰い込んでいたことが判る。
撮影場所:堤外牛田耕地
1930(昭和5)年12月31日までは向島区だった地域。隅田村の時代は大字隅田字綾瀬向。
0コメント