ご挨拶 もう少し
お蔭様で日々の訪問者50名前後、ビュー数も500~600ページあたり、とご好評をいただいております。「広告でも付けて小銭稼ぎさせてもらおうかな」と思っておりましたが、「容量無制限・商用自由」というAmeba Owndさんの方針が「それはこれからは有料で☆」と変更になってしまい、ホッピーも中4杯取る生活を余儀なくされております。呑み屋のおばちゃんからは「やだー、そんじゃ焼酎の味しかしないじゃないのさー」と言われましたが、そこは我慢…。それは冗談ですが、記事の信憑性が高まってきたら、広告を付けても罰は当たらないだろうと思っていたのにちょっとガッカリしました。そのビュー数では大した報酬額にならないってことは解っておりますが。
さて、「お前にこんなオタク臭い趣味があったのか」と言われて作ったこのサイトですが、制作に至るまで、苦労した点などを「ご挨拶 もう少し」として書かせていただきました。よかったらお付き合いください。
◆このサイトを作ったきっかけ
(1) 第一に、暇だからです!長らくやってきたバンド活動が終わってしまったので、「何かいい暇潰しはないかな」と思ったことからです。「こんなの作って、暇だよなぁ、羨ましい」と言われる前に自分から言っておきます!
(2) 「釣りをやってみようと思う」と言ってみたのですが、周りから「似合わねえー」などと言われてしまい、「じゃあ何かサイトを作ろう」と考え直しました。
(3) 何かを踏破するというスタンプラリーっぽいものがいいなと思ったのですが、川や橋、鉄道駅を紹介するサイトはもう既にいくつかありまして、他に何かないかと頭を捻っていたところ、「江戸町を全部紹介するサイトはないな」と思い付き、実際にやってみることにしました。江戸町に決める前は、交番、公園、公衆便所の全網羅をやってみようかと考えたりもしていました。
◆何故、江戸なのか?
(1) まず先祖代々が江戸・東京の出身であることです。「自分を育んでくれたこの町のルーツをできるだけ詳しく伝えたい」と考え、江戸にしました。ちなみに江戸が好きだからといって、江戸時代が好きなわけではありません。
江戸の古地図を見る場合、たいていの人は「**守*屋敷」が気になるようですが、自分の場合は武家地ではなく、町民地の方に目が行きます。なので興味対象である「嘗て江戸と呼ばれた範囲に存在した町」をただひたすらアップするサイトにしていこうと考えました。明治以降は「江戸」ではなく「東京」なので、何となく矛盾しているように感じると思いますが…。武家地は明治になったらもうなくなっちゃいますからね、だから「・・町」の方を追いかける方が面白いってこともあります。
(2) 「はじっこの方に行くのはちょっと厳しいけど、江戸だけに限定するなら、ママチャリで廻れるし、運動不足も解消できるだろう」と考えました。
(3) また、江戸や下町の範囲の世間的な定義がぐちゃぐちゃであることが気になっていたので、「そこまでは江戸。そこから先は違う」、「そこは下町。そこは違う」とはっきりさせたかったこともあります。「人それぞれでいい」ことと、そうじゃないことがあるので、そこはちゃんとしたかったというのがあります。
あと、江戸ではなく、武蔵国の話になりますが、「両国橋の東は下総国だった」とか、まことしやかに言われていますが、そういうのも本当やめてほしいと思いました。頭のいい筈である学者や知識人までもがそんな嘘っぱちを信じて語っていることにもう黙っていられなくなったというのもあります。そういう人がそんなことを広めたらそれが常識になっちまうじゃないですか。我慢なりませんでした。旧武蔵国と旧下総国との国境は今の隅田川ではなく、古隅田川(請地古川)の東西とその下流だった横十間川の東西だったっていうのに。本所も深川も、一度たりとも下総国に属していたことなんかありません!
◆どのように作り進めたのか?
(1) 江戸は明治に入り、「東京(東亰)」と改称したので、「江戸」という都市はもうこの世に存在しません。古地図、とくに切絵図を見るのは好きだったのですが、それまではぼんやりと眺めていただけで、とくに境というものに興味はなかったのです。しかし、サイトを作るにあたっては境を知らないといけないわけで、朱引・墨引の範囲は解ったけれど、まずはどう進めるかと考えました。
(2) 「町を紹介するサイトなんだから、切絵図の灰色に塗られたところを紹介すればいいのかな」と考えましたが、寺社地や武家地、拝領屋敷や農地はどうするか、俗称町名はどうするかなど色々と考えるに、「まず、いっそ全ての土地に町名が付けられることになった明治に入ってからの町、それも15区ができて以降の町を基本とする」ことにしました。
各地域の順番はWikipediaの「**区の町名」にしたがうことにし、gooの古地図サービス(東京市十五区番界入地図(俗称「郵便地図」又は「逓信地図」(明治40年 東京郵便局、東京逓信管理局編集)))とがほぼ一致しているので、それを参考にさせていただき、麹町から深川までまず「内容現在カテゴリー①」という概念を自分の中で確定させました。
「内容現在カテゴリー①」には江戸期の武家地や寺社地、農地まで含まれ、明治期になってから起立した町も多く、「これじゃ江戸じゃなくて東京市15区じゃないか」と思いながらも、とにかく「内容現在カテゴリー①」を完成させることにしました。
(3) その後、明治初期に消滅してしまった町の掲載に着手しましたが、便宜的に「・・町」と呼ばれていた地域も掲載することにしました。何故なら江戸期には俗称であった「・・町」のうち、明治に入って公式町名に昇格したものがあるからです。それと「恐らく、もう少し時代が経てば、町丁に昇格したのかな」と思われるところが気になり始め、小名・小字でも「町」が付けばそれも掲載することにしました。それが「内容現在カテゴリー②」です。
さらに、俗称や小字・小名と同様に、横町(横丁)や小路、新道、河岸で、町丁に昇格したところがあることを考え、それらも「内容現在カテゴリー②」の下に掲載することにしました。
(4) ここまででまず東京市15区におさまっていた地区はほぼ完成しましたが、江戸町であったのにもかかわらず、15区に入れてもらえず或いは一旦は入ったのにもかかわらず、その後郡部に追い出されてしまった荏原~南葛飾の町々については「内容現在カテゴリー①」の時代がないので、内容現在カテゴリーなしで掲載することにしました。
そしてようやく、朱引内・墨引内の全てを網羅することができました。
◆苦労した点(現地取材編)
(1) 坂です!坂が大嫌いなので坂のあるところに行くのが本当に億劫だった思いばっかりです。実は坂の多い区の出身ですが、低地に移り住んで四半世紀、坂が本当に苦手になりました。東京なんて、中央区、墨田区、江東区を除けば坂ばっかりです。取りこぼしの追取材が坂のある地域だと「マジかよ…」と呟くこと5万回。あと、坂とは関係ないですが、自転車走行中に足が攣ったりしたこともありました。あれはおっかない。
(2) 苦労ってほどではないのですが、なるべく通行人の顔や自動車のナンバー・プレート、家の表札を写さないように努力しました。何故なら、アップする前にぼかしツールでそれをぼかすのが七面倒臭いからです。ただ、いつまで経ってもそこから動かない人や自動車もいるわけで、その場合、次の取材地への移動時間を考えると「まぁ、ぼかせばいいか」と考えを翻すこともありました。知人からは「東京の写真なのに、人やクルマが少ないね」と言われましたが、それは「待つことが可能であった場合」だったときの画像だからです。
(3) 自転車のパンクや空気抜け、チェーン外れがけっこうありました。そうならないように出掛ける前にチューンしとけばいいのですが…。パンクは別ですが、そういうときは交番に行くと、お巡りさんがかなり親身になってくれました。
(4) 一度だけ、純地元民しか通らないような路地で撮影していると、窓から顔を出して、「何か?」と尋ねられることがありました。そうやって部外者に眼を光らせる、そういう町は泥棒等の犯罪が少ないいい町なんですよね。我が地元もそうでした。あとはそうですねえ、六本木とかああいうところで撮影するのはこっ恥ずかしかったですね。
◆苦労した点(文章入力編)
(1) 参考文献はほぼ『角川日本地名大辞典 東京都』です。「おことわりとお願い」でも書きましたが、当方は歴史研究家ではないので、『角川~』の記事に自分で書き添えた部分については自信がありません。とくに明治に入ってから15区ができるまでの期間、市制町村制施行の1889(明治22)年あたりはあやしいことになっているかもしれません。とくに外縁部は本当に難しいです。
(2) 古地図と現代地図を比較して場所を特定するのが大変でした。とくに外縁部は縮尺とかが実に適当で、幾度も画像の撮影し直しや文章の書き直しを強いられました。『大江戸今昔めぐり』というアプリケーションを導入してからは一気に作業が捗りましたが…。あと、外縁部ではないですが、作り始めの頃は、内容現在以降に造られた大きな道や架け替えになった橋に惑わされることもありました。色々と解ってくれば何てことないのですが。
(3) 和暦や「・・年間(年中)」という表記に西暦を併記したりすること、現在の町名を調べたりすることが結構大変でした。
わりと苦労の連続でしたが、そろそろ何となく「グランド・オープンに辿り着いたかな」という感じになってきたので、これを書かせていただきました。ただ、追加をアップするたんびに、友達からは「いつまで経っても終わんねえじゃねえか」とツッコまれますけど…。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
江戸町巡り管理人 *令和元年11月10日日曜日
0コメント