砂村隠亡堀「戸板返し」の位置を疑ってみるツアー

「うらめしやぁぁ、伊右衛門殿ぉぉぉ」


『黄金餅』のときと同様、「ツアー」なんつっても俺しかいないんだけどね。昔、「ビートたけしのオールナイトニッポン」の年末の放送では、バンド演奏でたけしに所縁のある人たちが歌を唄うっていう企画となっていたけど、チーム分けの発表の際、相棒のビートきよしが「街かどテレビチーム!」と紹介されたことに「チームって言ったって俺しかいねえじゃねえかよ」とツッコんでたのを思い出した。

ってなわけでやるよ、突然だけど。

さて、『東海道四谷怪談』の見せ場の1つに「砂村隠亡堀の場の戸板返し」がある。伊右衛門が釣りに出ると、堀には戸板に釘付けされたお岩さんと小平の死体が流れてきて、「ぎゃおー」と恐れおののくという最大の見せ場だ。

その有名な「砂村隠亡堀」の舞台とされた場所は、どの堀の、一体どの辺りなのだろう。

というのも、よく言われているように、隠亡堀の戸板返しの現場は横十間川左岸の岩井橋東詰近辺なのだろうか?江戸時代の古地図を見るとたしかにそこには焼き場があった。現在はウ*ン*ーハ*ム**というマンションが建つ所だ。

しかし、本当にそこなんだろうか?別の古地図を見ると、焼き場は違う場所にあり、岩井橋の東詰にはない。

「うーん、もしかしたらあれって別の所なんじゃないだろうか?」と思い始めた。

今はウ*ン*ーハ*ム**が建っているその前には「清洲橋通り」と呼ばれる道が走っているが、それはもともと「境川」という堀だった。もし戸板返しの現場がそこだというのであれば、境川が「砂村隠亡堀」ということになるが、「本当にそうなんだろうか?」とぼんやりと疑いはじめた。

それを検証したい。


※フェイスブックに載せているものを転載。文章は一部修正。

 元ネタは2015(平成27)年9月25日(金)アップ


この写真は「もしかしたらここかもしれない」と睨んでいる場所。仙台堀川松本橋の西詰ちょい北だ。

現在仙台堀川のこの部分は暗渠となり、河川敷の東部分に細やかな流れを残しているだけの親水公園となっている。ってことで、その川跡から、「もしかすると」の場所を撮ってみた。写真中央の照明が明るい所が焼き場だ!


ここが河川敷から見てぴかぴかと光っていた辺り。上にある電燈等が光っていたんだろう。現地に来てみるとぴかぴかはない。

古地図で見ると、このサ*イメ*ィカ*ク*ニ*クから裏が全部火葬場だったんだよ。写真左手は仙台堀川、奥は松本橋。


実際にその裏に来てみた。小振りの家が建ち並ぶ、何の変哲もない住宅地だが、昔ここは焼き場だった。それは事実だ。

知っているからなのか、そうじゃなくてもなのか、この一帯はかなり強く「いや~な感じ」を覚える。


振り向くと何とお寺!蓮光寺という浄土真宗のお寺だ。嘗てここに焼き場があったときには死体はワンツーでこのお寺のお墓に葬られたのだろう。


もう一度仙台堀川の河川敷からサ*イメ*ィカ*ク*ニ*クを見てみよう。

すると…おかしなことに気付いた。コンクリートの護岸がそこだけ違う感じになってんじゃないか!


焼き場に向かうそこだけが鉄製の薄い壁になっている。これはどういうことなのか。ここにはもともと護岸がなかった?⇒仙台堀川から分派する堀があって、焼き場の方に向かって流れていたんじゃないだろうか?

さてどうなんだろう?


これがその護岸のない部分だ!ここに伊右衛門が釣りにやって来て、戸板返しにびびったんではないのだろうか?!

⇒ってことで家に帰って再検証。

たしかにここは焼き場だった。「荻新田火葬場」という名称だった。しかし火葬場が荻新田火葬場としてここに移ってきたのは1887(明治20)年のことだ。

「移ってきた?」

そう、移ってきたのだ。どこからかというと砂村火葬場が廃止になって、ここに移ってきたのだ。砂村火葬場というのはさっき書いた、横十間川の岩井橋の東詰にあった焼き場だ。

江戸市中には火葬場を設けることはできなかった、というのは常識だ。

しかしご存知のとおり、江戸の範囲はどんどんと拡がっていった。新しい武家地、町人地の整備のため、横十間川以西の本所・深川が開拓され、そして旧下総国であった横十間川以東が武蔵国に吸収されるわけだ。人口はどんどんと増え続ける。そうなると江戸の境も変わってくる。「隅田川より西」だったのが「大横川より西」になり、それがやがて「横十間川より西」になる。つまり江戸が拡がっていくにつれて火葬場も移転を余儀なくされるわけだ。

「焼き場がそばにあると気味が悪くてしょうがねえや」という苦情が出て来るからだ。

そういうわけで、深川の霊巌寺も火葬場設置の許可が下りなくなり、その後、霊巌寺よりも東の大横川扇橋附近に在った極楽寺でさえ許可が下りなくなった。その後、極楽寺は横十間川より東に移転して砂村火葬場として落ち着く。

江戸時代はそれでよかったが、明治になって東京15区制が敷かれると砂村火葬場は深川区内ではないものの、市内と目と鼻の先ということでまたも移転を余儀なくされ、結局この荻新田に追いやられた。

そう、火葬場は「川向う」の人口増加にしたがって、境川沿いに東へと東へとどんどん追いやられてきたのだ。

だから境川が「隠亡堀」と呼ばれたのは二重の意味で間違いではないんだな。

で、もう判ったよね?さっき書いたけど、火葬場がこの荻新田に移ってきたのは1887(明治20)年のこと。『四谷怪談』ができたのは江戸時代だから、戸板返しはここではなく、定説どおり、横十間川の岩井橋東詰でしょう!

それに仙台堀川も横十間川より東のこの部分は明治になってから掘られたんだ。江戸時代の古地図ではここに堀なんてないもんな~。1896(明治29)年の地図には火葬場はあっても仙台堀川はここにはないんだ。

ただ、正確にはこれより先の荒川放水路が出来る前の中川右岸までが朱引内として括られているから、一応ここも江戸の内になるんだけどね。移転は「附近住民の人口によって」、ってことなんだろうね。

そう、まず何でも疑ってみて、仮説を立てて検証してみる。そこで真相を知って納得となる。それで賢くなるんだからそれでいいじゃないか。それにそれが面白いのだ。

くだらない検証ごっこだけど思い立ったらすぐに実行できちゃうんだから、江戸に住んでて本当によかったと思った。


―了―


・参考画像

ちなみにこれが横十間川岩井橋の西詰からの撮影。上は清洲橋通りだけど、『四谷怪談』の頃は「境川」という堀で横十間川と交差していた。

神田川の面影橋から戸板に釘付けされたお岩さんと小平はその後、柳橋から隅田川に出て、小名木川を通り、横十間川に入って、この合流地点を左折し、境川の火葬場前辺りで伊右衛門をびっくらさせるてぇわけだ。

Σヽ(゚Д゚○)ノ

※お岩さんはこの写真だと、左奥から来て、橋の位置で直角に曲がって、奥の方へと向かう。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿