おいわさんといっしょ ツアー
よいこのみんなー!おいわさんといっしょにながれてみよう!
※フェイスブックに載せているものを転載。文章は一部修正。
元ネタは2015(平成27)年9月29日(火)アップ
ここは『東海道四谷怪談』において、民谷伊右衛門とその手下によって、お岩さんと小平が戸板に釘付けされた現場。つまり、民谷伊右衛門とお岩さんが住んでいたとされてる家跡附近。まぁ、作り話なんだけどさ…。
「あれ?四谷左門町じゃないの?」と思うでしょう?あれは実在の田宮伊右衛門とお岩さんの住んでたところ。作者の鶴屋南北が「そのまんまじゃさすがにやべえだろう」ってことで、「四谷」と同じ読みのここ「四家」を舞台とし、冠に「東海道」なんて広範な地名を付けてボヤかしたんだってさ。その際、田宮姓も「民谷」なんて別の漢字を当てて誤魔化した。
そう、『東海道四谷怪談』っていうのは、当時江戸で起こった色んな話をくっ付け合わせた「お話」だってことを忘れちゃ駄目だぜ。
実際のお岩さんは意固地な女なんかではなく、落ちぶれた家を立て直すため、見栄を張らず夫婦揃って奉公に出るぐらいのいい女。そんなお岩さん、田宮家の庭に祀られていた屋敷神を篤く信仰していたという。そのお蔭で田宮家はどうにか持ち直したんだとさぁ。
その噂は江戸の町々を一気に駆け巡った。町民たちは少しでもそのご利益を与ろうと田宮家屋敷神を「お岩稲荷」と呼んでお参りに来るようになったんだって。それが現在も四谷にある「お岩稲荷」さ。この高田四ツ家町じゃないよ。
とにかく実在した伊右衛門とお岩さんのことを、お話のなかの2人とごっちゃにしちゃっちゃ駄目だよ。
実在したお岩さんは毒なんか飲まされてないし、目も腫れ上がってない。髪を梳かしながら悶え死になんかしてもないし、戸板に打ち付けられて川になんか流されてもない。
お岩さんはとっても美人でいい女だったんだって!
ってことで、今日、俺が辿るのは【『東海道四谷怪談』のお岩さんが民谷伊右衛門】に「水葬」と称して姿見の川の俤の橋(神田川の面影橋)上から捨てられて、境川(隠亡堀)に釣りに出た伊右衛門を戸板返しでビビらせるまでのコース。
ってなわけで、今は雑司ヶ谷鬼子母神表参道入口となってる民谷宅前を始点とする!
戸板の裏には伊右衛門に「お岩の不倫相手」と嫌疑をかけられて殺された小平もいるんだから言ってやんないと可哀相だけど、うーん、奴のことは考えないことにしよう。
とにかく今日はお岩さんとデートしたい。ってことで、題名を「おいわさんといっしょ」ツアーにした。
んじゃ、出発すっとしよう。橋や周辺の地域に関する薀蓄を絡めながら。でも、主は赤い線でお岩さんが進む方向を示した行程連続写真。
※撮影が困難だった場所、「これじゃ判りにくいだろうな」というような場合の補足画像以外はほぼ左岸からの撮影としました。
高田四家町宗参寺領は目白通りを挟んで南北に在ったから、もしかしたら現場はオリジン弁当目白高田店の在るところかもしれないけどね。
さて目白通りを渡って、この宿坂っていうのをどんどん下りてくんだ。伊右衛門がきょろきょろと辺りを窺って歩き、手下がお岩さんと小平を釘付けした戸板を運んでんのが目に浮かぶ。
これは右に進む。
◉神田川 面影橋
しかしよく人が落っこちる橋だ。「神田川に架かる140の橋」というサイトの文章をそのまま引用すっとしよう。
『戦国時代に於戸姫という名前の美女が落ち武者と暮らしていた。あるとき一人の男がこの娘を誘拐したところ、娘が失神し、それを死んだものと思って置き去りにする。
通りがかった杉山三郎左衛門という男が、自宅に連れ帰り、近くの小川氏の娘として育てたが、小川氏の友人が娘の余りの美しさに小川氏を殺害して娘を奪おうとするも、娘がその友人を殺害。娘は自分の美しさを恨んで、黒髪を切り落とし、そのまま神田川に身を投げたという。
村人達はその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたというのである。』
「娘は自分の美しさを恨んで」…。お会いしたかったもんですなぁ!
◉神田川 面影橋
江戸では真水が採れない。それを徳川家康が平川改修によってどうにかした。凄いことだ。いつそれを指示し、いつ準備し始めて、いつ着工し、いつ竣成したのか?現代でも何年もかかる工事だ。一体どんぐらいの期間を要したんだろう?
49歳で江戸入府、66歳で駿府城へ。その17年間で本当に工事を見届けたのか?嘘臭えんだよな、こういう話。他の奴がやったり言ったりしたことでも一番偉い奴の手柄になっちゃうしな。
◉神田川 大滝橋
神田上水取水口・大洗堰のあった付近に架橋されている。往時まるで滝のように豪快な様だったことからこの橋はこう名付けられた。
ここいらの地名はその取水口があまりに有名なので、取水口⇒関口となったわけ。
◉神田川 江戸川橋
江戸川って言うと、たいていの人は東京都と千葉県境に流れるあの大きな川を思い浮かべんだろうね。
1970(昭和45)年8月の河川法改正前は、1本の流れでも川は場所場所で呼ばれ方が違った。今は神田川として統一されたが、嘗てここは江戸川だった。
◉神田川 華水橋
お茶の世界で「井華水」とは夜明けに汲む水のことを言うらしい。ここの水を汲んだのだろうか。またこの辺りは桜の名所と言われていたため、川面に落ちた花びらもまた美しということからなのか、詳細は不明とのこと。
◉神田川 掃部橋
吉岡掃部という紺屋がこの橋近くに住んでいた説。「掃部」とは宮中の掃除等をしていた人の役職名。その役職名は子孫も用いたとされる。
例として、爺さんは八百屋だったけど、自分は八百屋でも何でもない。しかしみんなから「八百屋」と呼ばれる、というようなもの。
この近辺に住んでいた吉岡掃部は当時紺屋だったというけど、先祖の仕事名で呼ばれたんだね。当時、紺屋は賤民として差別されていたらしい。昔ってそんなことばっかりやってたね、しかし。そんな理由から吉岡さんはその後に落ちぶれることになったのか?
◉神田川 石切橋
ここからしばらくは親柱を撤去してやがる。何考えてんだ、馬鹿野郎。この辺り、石工職人が多く住んでいたからこの名となったらしい。ザ・クオリーメンだね!石切工もさっきの紺屋同様賤民とされていた。どうしても川沿いに住まわされたんだよな…。
◉神田川 小桜橋
桜の名所だったことからこの名となった。
◉神田川 お茶の水橋
ここも説明不要だろう…。
お茶の水とは慶長年間、神田山の麓の高林寺の庭から良質の湧水が出ていた。徳川秀忠はそれをお茶用に使い大変喜んだという。だからお茶の水…。蕎麦用に使ったら「蕎麦の水」だったんだなぁ。
◉隅田川 両国橋
神田川との合流地点
江戸の母なる川・隅田川。10月1日は都民の日、学校でかっぱのバッジを買えば都の施設はロハで入れた。それは東京っ子の常識だけど、当時は隅田川とは縁遠くて、「何でかっぱなんだろう?」って思ってた。
◉隅田川 両国橋
ここもほとんど説明不要でしょう。江戸時代的に言うと「大川の大橋」と言った方がいいか。大川よりもっと古く言えば「宮戸川」とか「住田河」とかあるけど。
それまでは「大橋」と呼ばれてたけど、武蔵国と下総国とに跨ってたから「二州橋」、「両国橋」と呼ばれ始め、後者が定着した…。
↑ とか何とか、けっこうそう言われて信じられてるけど、それは嘘。実際の国境は古隅田川(今の横十間川)であって、本所はもともと武蔵国!江戸が東に広がっただけで、本所はもともと武蔵国。ただ、横十間川から東の亀戸地区が下総国から武蔵国へ移管されたのは事実。そして亀戸も逆井の渡しのところまでが江戸となったんだ。
両国橋、元の架橋位置は今より少し南側。東両国は橋詰の本所藤代町が繁華で、その南の本所尾上町には見世物小屋があって賑わってたんだと。
詳しくは『本所七不思議ツアー』でやります。
◉小名木川と大横川の交差箇所
◉小名木川 小松橋
さらに東へ。
◉小名木川・横十間川 小名木川クローバー橋
小名木川と横十間川の合流箇所。
今やなくてはならない橋となった。大横川との合流点にもあれば便利なんだけどな。ハゼ釣りを楽しむ人が、ここから竪川の亀島橋までビッシリ。
◉小名木川・横十間川 小名木川クローバー橋
お岩さん、ついに横十間川に入る。
横十間川は別名がたくさんある。天神川、釜屋堀、横十間堀、横十間堀川…。1659(万治2)年、徳山重政と山崎重政によって開鑿された。
江戸の常識だけど、大横川も横十間川も地図で見ると縦に流れている。そして竪川は横に流れている。同じように落語でお馴染みの熊五郎が住む神田の竪大工町は横、隣の横大工町は縦。
何故かって?
全部江戸城から見た、縦(竪)と横なんだよ!
◉小名木川・横十間川 小名木川クローバー橋から横十間川 水門橋
水門橋はそれより南方「横十間川親水公園」として整備された部分の水を吐き出す役割をしている。水位がかなり違うために排水の際、泡が立ってかなり潮臭いんだけど、俺はこの匂いが大好きだ。
◉横十間川 岩井橋
まだ新木場のオフィスにいた頃、散歩を兼ねてちょくちょく徒歩で帰宅することがあった。一度だけ同期のMを付き合わせたことがあった。この右岸にあるボードウォークを通りかかったときのこと。ちょうど岩井橋の橋の下。
お化けの話とかそういうのがとにかく嫌いな怖がりのMに「ここお岩さん所縁の場所なんだぜ」と言ったそのとき、「ブワッ!」っていう風圧と「ガラガラッガッシャーン!」
チャリンコでボードウォークを走行していた若い奴が俺達の横っちょで素っ転び、そいつの持ってたコンビニのレジ袋から物凄い勢いで缶ビールが吹っ飛んだ。缶はうち数本穴が空き、「プシュー!」って音を立てながら勢いよく辺りに泡を噴出してた。
「おいっ、怪我ねえか?ここ徐行しなきゃ駄目だぜ」と言うと、若い奴はわりと素直に「すいません」と謝ってきた。
で、Mはどこに?奴は恐れおののいて「ウワァーッ」と叫びながら走って逃げていった。Mは本当に臆病なんだ。
その前に、横十間川 岩井橋上から、横十間川に入った水門橋からの順路を振り返る。
◉境川(隠亡堀)の焼き場(砂村火葬場)前
ここが終着。そう、ここが有名なあの「戸板返し」の舞台。もちろん設定上の話。伊右衛門、さぞやビックリしただろうなぁ。お岩さんの「してやったり」の顔もお茶目で愛らしい!
ただここに砂村火葬場が在ったのは事実。跡地には現在、ウ*ン*ーハ*ム**というマンションが建つ。住民は知ってか知らずか。
今日一日、お岩さんを独占したような気分になれたぜ!…小平のことは完全に忘れてた。
ってなわけで、「おいわさんといっしょ」ツアーはこれにてお仕舞い。
(_´Д`)ノ~~オツカレー お岩さん!愛してるぞ~!
―了―
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