【神田①009】神田松枝町
町番号:神田①009
町名:神田松枝町
読み方:かんだまつえだちょう Kanda-Matsuedachō
区分:町丁
起立:1705(宝永2)年
廃止:1965(昭和40)年6月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区岩本町二丁目5~7、11・12番と10番北
概要:江戸期は和泉橋南方に南北に3ヶ所に分かれて並んだ町屋(切絵図)で、本来は「まつがえちょう」と呼ばれていたが、「マツエ丁」(享保江戸図)、「マツエダ丁」(天保江戸図)ともいった。嘗ては奥州街道が通っていた町の西域は松前藩松前志摩守等の武家地で、東域には遊行道場で時宗神田山日輪寺があった(寛永江戸図)。1705(宝永2)年、幕府の老女・松ヶ枝にこの地が与えられた(府志料)。町の南方を流れていた藍染川に弁慶橋が架かっていた。現在は僅かに於玉が池の名残を留めるものとして、於玉稲荷社が祀られている。
「於玉が池」は桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれていた。池畔には桜見の客目当てに茶屋があったが、その看板娘が「お玉」という名だった。お玉は2人の男から言い寄られるも、それが「人がらも品形もおなじさまなる男二人」であり、どうしたらよいか悩んだ末、桜ヶ池で入水自殺。その亡骸は池の畔に葬られた。このことから次第に「於玉が池」と呼ばれるようになった(江戸名所)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に神田松下町一丁目代地と神田小泉町の一部を編入。その際、読みを「まつがえちょう」から正式に「まつえだちょう」に改める。1872(明治5)年には西北のお玉ヶ池武家地を編入。同年の戸数242・人口1,210(府志料)。物産として鼈甲細工、金箔、象牙細工があった(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1965(昭和40)年7月1日、住居表示実施により、岩本町二丁目に編入となり消滅。
撮影場所:神田松枝町
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