【神田①075】駿河台北甲賀町
町番号:神田①075
町名:駿河台北甲賀町
読み方:するがだいきたこうがちょう Surugadai-Kita-Kōgachō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1933(昭和8)年
冠称:「駿河台」
現町名:千代田区神田駿河台一丁目8番地、三丁目6、11番地
概要:「駿河台」は、はじめ北方の本郷台地の南端であったが、1620(元和6)年に二代将軍秀忠の命によって仙台藩祖伊達政宗が仙台堀(神田川)を開鑿したことにより、北の湯島台と駿河台とに分離され、そう呼ばれることになった。『御府内備考』によると「甲賀」とは「埃坂の上なり。昔甲賀組の者居し処といふ。又(江戸志)に馬場昌宇と云医師の屋敷ありしゆへの唱へといふ。昌宇は口中医なりしならん」とあり、
1872(明治5)年、甲賀者が多く住んだことによりことで江戸期から俗称されていた「甲賀町」(正保武官)を南北に分けて成立(甲賀坂を間に駿河台南甲賀町と駿河台北甲賀町が起立)。また、「甲賀」の起源には、甲賀者の務める火消屋敷があったからという説もある(駿河台誌)がある。同年の戸数38・人口198(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。明治30年代には広大な屋敷町で正教神学校、女子神学校等があった(画報)。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、駿河台一、三丁目のそれぞれに編入となり消滅。
撮影場所:駿河台北甲賀町
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