【京橋①088】佃町
町番号:京橋①088
町名:佃町
読み方:つくだちょう Tsukudachō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続 「佃」として
冠称:なし
現町名:中央区佃一丁目
概要:現在の佃は「石川島」・「佃島」と呼ばれた2つの島(江戸時代後期に一体となった)を起源としている。明治時代に南に拡張され、1896(明治29)年までに、旧来の島部(佃島(現在の佃一丁目及び二丁目北部))と、明治期における埋立部(新佃島西町(現在の佃二丁目南部)及び新佃島東町(現在の佃三丁目))を併せた、現在に至る町域が確立した。その後、住居表示実施により行政上の住所が「佃」に統一され、今日に至っている。
中世において隅田川の河口部に位置していた島(文亀(1501~1504年)で古図にも見られ、「森島」、「鎧島」、「八右衛門島」等と呼称されていた)を、1626(寛永3)年、旗本・石川八左衛門重次が徳川家光から拝領し、屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった。一方、徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645(正保2)年、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村に因んで「佃島」と命名した(古地図には「田」の字の島が描かれ、現在の地図においても同様の形状が佃一丁目の一部に確認できる)。なお、彼等は全員が西本願寺の信徒であった。
江戸の佃島の漁民の故郷は関西の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。本能寺の変が起きた時、徳川家康は僅かな手勢と共に大坂・堺にいた。家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。そこに救世主の如く現れたのが近くの佃村の庄屋森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼等は家康等に漁船を提供した。その結果、家康等は生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。現在の佃一丁目、佃二丁目北部は、上記の石川島と佃島の場所に該当する。
『本所深川絵図』には既に「佃嶌町」と書かれている。俗に「漁師町」とも称され、住民の殆どは漁師で、僅かに薪炭問屋、錨鍛冶等があった。漁民は白魚献上の御用を務め、毎年11月から翌年3月まで佃沖で篝火を焚いて行う白魚漁は江戸の風物詩の1つであった。島北西部にある住吉社は摂津住吉社を分霊し移したもの。
1872(明治5)年、北の石川島を合併して佃町を起立。同年の戸数251・人口1,354(府志料)。江戸期は現在の佃一・二丁目に跨る一部であった。
1878(明治11)年11月2日、東京府京橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市京橋区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都京橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。1964(昭和39)年9月、佃大橋の完成により、正保年間(1645~1648年)以来の佃の渡しが廃止された。
1967(昭和42)年3月1日、住居表示の実施により、「町」を取り、一・二丁目に分割され、新佃島西町一〜三丁目が二丁目の一部に編入され、新佃島東町一〜二丁目は三丁目となった。
なお、1947(昭和22)年の『中央區(京橋)』には石川島に「佃町」、佃島には「佃島町」と別に書かれている。
撮影場所:佃町
撮影地:中央区佃一丁目10番11号地先(佃川支川 佃小橋上東岸北方)
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