【芝①095】白金台町

町番号:芝①095

町名:白金台町 一・二丁目

読み方:しろかねだいまち Shirokane-Daimachi

区分:町丁

起立:1651(慶安4)年

廃止:存続 「白金台」として

冠称:「白金」、さらに1947(昭和22)年3月15日から「芝」

現町名:港区白金二丁目、白金台一・三~五丁目

概要:もとは白金村増上寺領のうち。1651(慶安4)年、白金大道又は相模街道(現在・目黒通り)沿いに形成された町屋が白金村より分離、白金台町一~十一丁目が成立。『備考』には「夕七ツ時過候得者辻切追剥等有之往来止リ候ニ付慶安四卯年中商人町屋ニ仕度旨地頭増上寺之相願候得者」とある。町名は白金にある台上の町の意で、1713(正徳3)年に町奉行支配となった(備考)。なお、『目黒白金圖』には「台」のない、「白金一~十一丁目」と書かれている。

1867(慶応3)年、外国人に牛肉を供給していた中川嘉兵衛が江戸荏原郡今里村(後の芝白金今里町、現在の白金台二丁目)に屠牛場(後の「東京共有屠牛場」)を設立。これが江戸・東京における最初の近代的屠場であった。

『江戸町名里俗名集覧』の説明が全く意味不明。「上町有、但シ十町めハ無之、猿町の先キはなれ有」、「壱丁目ハ二本榎の西 樹木谷より、十丁目ハ猿町の先に有十一町目ハ永峰町つゞき目黒手前」とある。これは今でいう目黒通りと桜田通りを混同しているものかと思われる。白金台町は桜田通りから分岐した現・目黒通りを覚林寺(清正公)の東(三田樹木谷の西)から廻り込み、途中、寺地や武家地を挟みながら、現・目黒駅の方に向かって十一丁目まで連なっている。途中、十丁目はちゃんと存在する。また、白金猿町は現・桜田通りを南下し、現・高輪台駅の辺りであり、その先に存在するのは白金台町十丁目ではなく、品川台町である。十丁目は長田岩五郎屋敷地の西に存在している。品川台町は白金台町十丁目の離れで、その後に独立したとでもいうのだろうか。こういうのが本当に困る。なお、品川台町の項の説明にも「二本榎のつゞき 猿町の先東側也 西側ハ白金十町目分也」とある。白金猿町の東側は武家屋敷であって町地ではなく、西側の品川台町(それとも品川台町の更に西のことか)を白金台町十丁目と書いている。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、六丁目に白金瑞聖寺門前(白金瑞聖寺門前町)を合併。1873(明治5)年、一~五丁目に黄檗宗紫雲山瑞聖寺の敷地等を併せて新たに一丁目と、六~十一丁目はもと讃岐高松藩松平氏下屋敷(白金御料地、その後は海軍火薬庫)等を合併して二丁目と再編。同年の戸数351・人口1,079、物産濁酒44石(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。1908(明治41)年の世帯数486・人口2,194、1925(大正14)年の世帯数751・人口3,716(市勢調査)。閑静な邸宅街であったが、大正初年に路面電車が通じる頃から表通りに商店街ができはじめた。1943(昭和18)年7月1日、東京都芝区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。日吉坂上の一丁目以西の電車通りは軒並み商店となり、大邸宅が細分化されたり、アパート化した。

1969(昭和44)年1月1日、住居表示の実施により、現行の白金二丁目、白金台一、三~五丁目のうちとなる。

撮影場所:白金台町二丁目

撮影地:港区白金台五丁目19番1号(港区立白金台どんぐり児童遊園)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。