【麻布①018】麻布北日ヶ窪町

町番号:麻布①018

町名:麻布北日ヶ窪町

読み方:あざぶきたひがくぼちょう Azabu-Kita-Higakubochō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1967(昭和42)年6月30日

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」

現町名:港区六本木五丁目9・10番、六丁目4、7~14番

概要:麻布領麻布村のうち。「北日下窪町」とも書く。『備考』等、明治初年までの資料によると江戸期には公式には「麻布北日下窪町」と書いたようである。百姓町屋等が次第に建って、1713(正徳3)年5月に町奉行支配になった。町名は村の頃からの地名で、三方山になった窪地であるため、住民が陽の下、日当たりのよい方に居住したことによる(町方書上)とする説、日当りの良い窪地の意味という日南窪から転訛した(案内)とする説、蜀山人の土人形の入った桶が掘り出されたから「雛窪」といった(一話一言)という説等がある。現在の港区立六本木中学校付近には、円形古墳らしい道灌山という丘があったそうで、古くから人々が住み着いていた地域のようだ。谷間の北部にあるために「北」を冠した。

1828(文政11)年の総家数144軒、うち家持13・家主11・地借5・店借115(町方書上)。町内には毛利甲斐守邸があり、この邸内では忠臣蔵の赤穂浪士のうち10名が切腹をした。また、乃木希典生誕の地でもある。この邸宅敷地内には池があり、後にニッカウヰスキーの工場敷地になり、さらに後年ではテレビ朝日の敷地となったが、池は残った。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、正信寺門前飛地と麻布教善寺門前飛地を加えた。1872(明治5)年、長門府中藩五万石毛利氏上屋敷及び抱屋敷(幕末には堀田氏)・豊前小倉新田氏上屋敷他武家地、長燿寺・法典寺・清徳寺・龍興寺・朝日稲荷社の寺社地を合併。同年の戸数205・人口714(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。太平洋戦争末期の空襲で、ほぼ全域が罹災した。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。

1967(昭和42)年7月1日、住居表示の実施により、現行の六本木五丁目9・10番、六丁目4、7~14番のうちとなり消滅。

撮影場所:麻布北日ヶ窪町

撮影地:港区六本木六丁目9番(欅坂下)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。