【赤坂①020】青山三筋町

町番号:赤坂①020

町名:青山三筋町 一・二丁目

読み方:あおやまみすじちょう又はあおやまみすじまち Aoyama-Misujichō or Aoyama-Misujimachi

区分:俗称→町丁

起立:江戸期

廃止:1966(昭和41)年9月30日

冠称:「青山」、さらに1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「赤坂」

現町名:港区北青山一丁目6・7番のそれぞれ一部

概要:寛文年間(1661~1672年)頃には、甲府宰相徳川綱重(五代将軍綱吉の兄。六代家宣の父)の邸地だったが、後に小身の武士の屋敷地となる。町内を南北に通る道が3本あったことから俚俗に「三筋町」と呼ばれていた。『沿革図書』には、青山三筋町東通り、青山三筋町中通り、青山三筋町西通りが見える。

1872(明治5)年、中通りの東西ブロックを一・二丁目に分け、正式に起立。同年の戸数74・人口286(府志料)。二丁目の辺りは、江戸時代、甲賀百人組の屋敷地があり、「甲賀町」とも呼ばれていた。二丁目の西北には6方向に道が分かれる六道の辻があり、その近辺は「立石」の俚俗称もあった。

1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1886(明治19)年4月、北部が青山練兵場の一部となる。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。1891(明治24)年、町の南部に陸軍大学校が置かれた。練兵場は1926(大正15)年完成の明治神宮外苑の敷地となった。このような状況のため、当時は事実上、町屋は1軒も存在しなかった。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦後にできた都営住宅もあるが、その住民は全て赤坂青山北町一丁目として住民登録を行ったので、相変わらず表面上住民のない町であった(港区史)。なお、中通り、西通りの中間に「化物横丁」の俗称があった(東京地名地引)。

1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、北青山一丁目6・7番のそれぞれ一部に編入となり消滅。

※読みは『港区旧新町名対照表』では「ちょう」、『角川日本地名大辞典』では「まち」とある。また『角川日本地名大辞典』には「現在の北青山1丁目7番の大半(港区沿革図集)」とあるが、6番の一部も含む。

撮影場所:青山三筋町一丁目

撮影地:港区北青山一丁目6番(都営北青山一丁目アパート前)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。