【赤坂①019】青山北町
町番号:赤坂①019
町名:青山北町 一~六丁目
読み方:あおやまきたまち Aoyama-Kitamachi
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1966(昭和41)年9月30日
冠称:「青山」、さらに1947(昭和22)年3月15日から「赤坂」
現町名:港区北青山一~三丁目
概要:古くは、一~五丁目辺りは原宿村、六丁目辺りは上渋谷村の田野だったが、1590(天正18)年、徳川家康の関東入国の後、一体は青山忠成の屋敷として与えられ、青山という地名の起こりとなる。江戸時代には篠山藩青山家の他、龍野藩脇坂家、広島藩浅野家、一関藩田村家、柳本藩織田家等の大名や百人組同心大縄地(青山百人町)をはじめとする幕臣の屋敷地、善光寺や海蔵寺、高徳寺等の寺社があった。
1872(明治5)年、青山通りの北及び北西側の青山和泉町、青山北和泉町、青山久保町、青山原宿町(現・渋谷区神宮前三丁目だが、当時は赤坂区だったのか不明)、青山善光寺町、旧武家地、寺地を併合して一~七丁目が起立。同年の戸数903・人口3,738、物産は傘、生茶、桑、繭、藍等がある(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1886(明治19)年、一~三丁目の裏手一帯が陸軍青山練兵場となる。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。その際、七丁目は東京府南豊島郡渋谷村に編入、大字青山北町七丁目となる。1891(明治24)年には一丁目に陸軍大学校、1900(明治33)年には青山師範学校が移転。青山練兵場の敷地は、1908(明治41)年に大博覧会敷地に認定されたが(博覧会は1913(大正2)年に無期延期)、1913(大正2)年に明治神宮の社地に選ばれた。なお、1918(大正7)年には三丁目に女子学習院が転入。1926(大正15)年、神宮外苑が竣工。六丁目より明治神宮へと向かう表参道が設置。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦後は青山通りを中心にビル化が進み、赤坂・六本木と並び評される先端的な繁華街へと発展を遂げ、一丁目の陸軍大学校は区立青山中学校と都営アパート、三丁目の女子学習院は秩父宮ラグビー場等、五丁目の青山師範学校跡が都営住宅に整備された。
住居表示の実施により、1966(昭和41)年10月1日、一丁目が北青山一丁目に、二丁目が北青山一・二丁目に、三・四丁目が北青山二丁目に、五・六丁目が北青山三丁目に編入となり消滅。
撮影場所:青山北町二丁目
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