【牛込①053】牛込高田町

町番号:牛込①053

町名:牛込高田町

読み方:うしごめたかだまち Ushigome-Takadamachi

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1975(昭和50)年5月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「牛込」

現町名:新宿区西早稲田二丁目

概要:徳川家康の六男である松平忠輝は関ヶ原の戦いの後、家康の命を受けて慶長年間(1596~1615年)に越後高田藩に奉じた。このため忠輝の生母・茶阿の局は「高田の君」と呼ばれるようになる。高田藩の御用屋敷が馬場下付近にあり、生母はその近くであったこの地を「遊覧地」としたために、付近一帯は「戸塚村」あるいは「下戸塚村」であったにもかかわらず、一部が「高田町」と呼ばれるようになった。明治末の地図を見ると、穴八幡宮のある場所が「牛込区高田町」として「高田」の名が残っている。また、嘗て穴八幡宮向かいの「水稲荷」横にあった富士塚を、「高田富士」と呼んでいたのもこの関係だと思われる。忠輝は二代将軍・秀忠によって、1616(元和2)年に改易されてしまう。その後、1636(寛永13)年になって、三代将軍・家光によって遊覧地に「馬場」が造営され、「高田の馬場」と呼ばれるようになった。

1869(明治2)年、牛込放生寺門前が改称して起立。町名は高田馬場の傍らに位置したことに因む。1872(明治5)年の戸数21・人口79(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。町域は高田八幡(俗称「穴八幡宮」、「穴八幡」)と放生寺(真言宗光松山放生会寺)が大部分を占めている。

1975(昭和50)年6月1日、住居表示の実施により、西早稲田二丁目に編入となり消滅。

※『角川日本地名大辞典』には「昭和50年現行の西早稲田1丁目の一部となる」とあるが、間違い。

撮影場所:牛込高田町

撮影地:新宿区西早稲田二丁目1番11号(穴八幡宮)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。