【下谷①058】下谷龍泉寺町

町番号:下谷①058

町名:下谷龍泉寺町

読み方:したやりゅうせんじちょう Shitaya-Ryūsenjichō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1869(明治2)年

復活:1891(明治24)年

廃止:1966(昭和41)年9月30日

冠称:1911(明治44)年まで「下谷」

現町名:台東区入谷二丁目、竜泉一~三丁目、千束二・三丁目

概要:当町の名称は古刹龍泉寺に因む。龍泉寺の開基年代は判然としないが、江戸時代初期からあったと見做して間違いない。龍泉寺の寺領は大変広く、寺周辺から新吉原附近まで及びこの一帯を「龍泉寺村」と呼んでいた。下谷龍泉寺町の起立年代ははっきりとは分からない。延宝7年版『江戸方角安見図鑑』には吉原から金杉へ抜ける道筋に「ちゃや丁」とあるのが当町と思われる。龍泉寺村のうちに形成された吉原に附属する茶屋町で龍泉寺の門前町ではなかったようだ。町名は旧村名を採って「下谷龍泉寺町」とした。1745(延享2)年に町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830)の家数158軒(町方書上)。

前身の下谷龍泉寺町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、「下谷龍泉町」と改称し消滅。後身の下谷龍泉町は1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡所属。

町内には紅葉で有名な正燈寺、酉の市で賑わう鷲大明神社があり、貸座敷や料理屋も多く、熊手作りの内職が盛んであった。樋口一葉は1893(明治26)年7月から10ヶ月間、当町の368番地に暮らしたが、移住直後の日記に「此家は、下谷よりよし原がよいの只一筋道(茶屋通り)にて夕方よりとどろく車の音、飛ちがう灯火の光り、たとえん詞なし」と記している。

さらに1889(明治22)年5月1日、下谷龍泉町の全域、龍泉寺村の一部、千束村の一部及び三ノ輪村飛地が東京府東京市下谷区に編入となる。次いで、1891(明治24)年にはこれらを1町として下谷龍泉寺町が再び誕生。1937(昭和12)年、西の一部は金杉二丁目に編入となる。

1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。同年、一部は浅草区に編入となり、浅草区日本堤三丁目、浅草区龍泉寺町となる。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。下谷区龍泉寺町、浅草区龍泉寺町ともに台東区に所属となり、台東区龍泉寺町となる。

住居表示の実施により、1965(昭和40)年8月1日に、入谷二丁目、竜泉一・二丁目、千束二・三丁目に、1966(昭和41)年10月1日には竜泉三丁目に編入となり消滅。

なお、前身の「龍泉寺村」について以下に詳述する。

「龍泉寺村」とは、豊島郡峡田領のうち。はじめ幕府領。正保年間(1645~1648年)以降、東叡山領。村名の由来は嘗て龍泉寺領であったためという(新編武蔵)。『田園簿』の村高は68石余。『天保郷帳』では117石余。1745(延享2)年、村の西南の町屋が町奉行支配となり、下谷龍泉寺町が起立。用水は石神井用水を分水。化政期(1804~1830年)の家数18軒(新編武蔵)。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府豊島郡に所属。1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数105・人口430(府志料)。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に編入。1891(明治24)年に下谷龍泉町と合併し、下谷龍泉寺町の起立となり消滅。

撮影場所:下谷龍泉寺町

撮影地:台東区竜泉二丁目17番15号(龍泉寺)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。