【浅草①015】浅草猿屋町

町番号:浅草①015

町名:浅草猿屋町

読み方:あさくささるやちょう Asakusa-Saruyachō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1934(昭和9)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区浅草橋二・三丁目

概要:往古は豊島郡峡田領鳥越村のうちで、1667(寛文7)年に町屋となった。「往古武州豊島郡峡田領鳥越村と申候由にて、寛文七庚午年中町屋に被仰付候処、如何の訳にて猿屋町と相唱候哉相知不申候。尤土地にて申伝候には、越後國猿屋村より罷越候者にて、猿屋加賀美太夫と申舞太夫にても御座候哉、右の者往古当所に住居罷在候由、其後町屋に被仰付候ても里俗に猿屋と相唱、自然町名相成候由」(備考)。

1732(享保17)年3月28日に浅草本蔵寺門前からの出火で類焼し、同年5月に町域の一部が米蔵火除地として収公され、浅草諏訪町西側の堀田相模守屋敷跡に代地を与えられ、「浅草猿屋町代地」と称した。化政期(1804~1830年)の家数、浅草猿屋町170軒・浅草猿屋町代地120軒(町方書上)。

町名の由来には2説あって、越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから(備考)とも、猿引き(猿回し)が多く住んでいたから(江戸志)ともいわれる。1789(寛政元)年12月、公収された土地の東側に札差御改正会所が造られ、1794(寛政6)年2月にはその隣接地に御廻米会所が造られた。前者は札差から御家人達へ貸し出す金利の取り締まりを所管し、後者は上納米を改めたりする役所であった。1870(明治3)年正月版町鑑によると、浅草末永町は江戸時代の芝御掃除屋敷代地で、1869(明治2)年4月29日付示達によって改称した。芝御掃除屋敷代地は、1811(文化8)年5月、御掃除の者に与えられた。芝の旧地が公収されたのに伴う代地であった。御掃除の者というのはこの場合、芝増上寺の将軍廟を管理する幕使である。この代地はもと浅草猿屋町内だった土地で、1732(享保17)年の災後明地になっていた。掃除の者にその明地を給したのだった。なお、加賀美稲荷は加賀美太夫に由来し、町内には栗饅頭の若松屋丹後、売酒屋の常陸屋等があった(買物独案内)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に浅草猿屋町代地が「浅草新猿屋町」と改称。また江戸期の浅草猿屋町に、1869(明治2)年に浅草末永町、1872(明治5)年又は1873(明治6)年には、備前鴨方藩池田家2万5,000石上屋敷、上記両会所跡地を合併。1872(明治5)年の戸数141・人口590(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。池田家屋敷跡は警視庁用地になり、浅草猿屋町警察署(1881(明治14)~1890(明治23)年)が設置された。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、浅草鳥越二丁目、浅草橋二・三丁目に編入となり消滅。

撮影場所:浅草猿屋町

撮影地:台東区浅草橋三丁目16番(加賀美久米森稲荷神社)

←014浅草新福井町 016浅草新猿屋町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。