【浅草①068】浅草聖天町
町番号:浅草①068
町名:浅草聖天町
読み方:あさくさしょうでんちょう Asakusa-Shōdenchō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1966(昭和41)年9月30日
冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1966(昭和41)年まで「浅草」
現町名:台東区浅草六・七丁目
概要:町名は大聖歓喜尊天を安置する金龍山聖天宮(現在の待乳山本龍院)に由来する。成立年代は不明だが、「承応中浅草寺領となり、のち漸く市肆を開く」(案内)とあり、寛文江戸図には既に「聖天丁」と記されている。文政年間(1818~1830年)の家数は横町(聖天町附横町)を含め618軒。鶴屋の米饅頭が有名で、下駄・草履の鼻緒を売る店が多かった(買物独案内)。「線香畑」や「砂利場」とも呼ばれた。
本龍院は浅草寺の末寺で、往古から庶民信仰を集めていたが、特に江戸期から明治期にかけては待乳山(標高9.5m)からの隅田川の眺望を賞する文人墨客の吟遊地として有名であった。境内山頂に現存する戸田茂睡の歌碑「あはれとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉」がある(1955(昭和30)年修復)。また、山谷堀沿いに「土手の道哲」といわれた弘願山西方寺(開基道哲)があったが、小塚原移転以前、同寺の門前が刑場だったので、道哲は罪人のために念仏を念じていたという。西方寺は現・豊島区西巣鴨に移転し現存。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数530・人口2,091(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。1948(昭和23)年、隣接の浅草山川町、浅草金龍山瓦町(旧称浅草金龍山下瓦町)、浅草山ノ宿町の北側を合併して町域を拡大。
1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、大部分が現行の浅草七丁目に、江戸通り西側部分が浅草六丁目に編入となって消滅。
撮影場所:浅草聖天町
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