【浅草①072】浅草田町

町番号:浅草①072

町名:浅草田町 一・二丁目

読み方:あさくさたまち Asakusa-Tamachi

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:一丁目は1966(昭和41)年9月30日、二丁目は1936(昭和9)年

冠称:一丁目は1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1966(昭和41)年9月30日まで、二丁目は1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区浅草五・六丁目、千束四丁目、東浅草一丁目

概要:浅草寺領。1660(万治3)年、江戸城修築の際に砂利採取場となった地。通称「砂利場」といわれた。1664(寛文4)年に「何方之も御願不申上、町屋立来」(備考)とあり、無許可で町が開かれ、1704(宝永元)年に町地として正式に認可された。はじめ「泥町」と称したが、後に「浅草田町」と改称し、さらに一・二丁目となる。いずれも年代・由来ともに不明。化政期(1804~1830年)の家数560軒(町方書上)。日本堤の南側に位置し、浅草寺との境界に竹木戸が設けられ、「竹門」と呼ばれていた。砂利場跡は一丁目で、埋め立てられて「埋堀」と俗称。二丁目には、吉原通いの遊客が編笠を借りた編笠茶屋28軒があった。また一・二丁目の境に袖摺稲荷神社(衽(おくみ)稲荷)があった。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に浅草寺割残屋敷、元田町裏屋敷を合併。1872(明治5)年には浅草山川町の一部と浅草山田町を合併。同年の戸数761・人口2,869(府志料)。さらに1873(明治6)年には丹波柏原藩織田家2万石の別邸を合併。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一丁目の大部分が馬道二・三丁目、浅草象潟三丁目に分割編入となる。1936(昭和11)年、一丁目の一部が日本堤一丁目に、二丁目の全域が日本堤一・二丁目に編入され、一丁目だけの狭小な町域となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、残余の一丁目の町域は、現行の浅草六丁目に編入となり消滅。

撮影場所:浅草田町二丁目

撮影地:台東区浅草五丁目73番1号(東京都下水道局日本堤ポンプ所 花園通り東端)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。