【荏原】白金六軒茶屋町
町名:白金六軒茶屋町
読み方:しろかねろっけんぢゃやまち Shirokane-Rokkenjayamachi
区分:小名→小字
起立:江戸期
廃止:1932(昭和7)年9月30日
冠称:「白金」
現町名:品川区上大崎二・三丁目
概要:『御府内備考』には、当町と西隣の白金永峯町について、「以上二ヶ町は台町に続きて目黒町の間ニ挟りたれは白金の六軒茶屋町白金の永峯町と都下の人は称すれと左にあらす二ヶ町とも皆上大崎村の内なり故に姑く白金の附録とす」と断りがある。つまり、2町は正式には「白金」の冠称を付してはいなかったが、慣用的にそう呼ばれていたようなので、このサイトでは「白金~」とする。なお、『御府内備考』は永峯町の漢字表記を「永峰町」としている。
大崎村は正保年間(1645~1648年)に上と下に分離(『新編武蔵』では正保(1645~1648年)~元禄(1688~1704年)年間に立村とある)。当町は上述のとおり、上大崎村のうちにあった。『元禄郷帳』に上大崎村の枝郷として記載されている「永峰六間茶屋町138石余」(漢字表記ママ)は、その後、永峯町、六軒町、六軒茶屋町となり、1713(正徳3)年に町奉行支配となる。『新編武蔵』には、上大崎村の小名として各町が記載されている。
『目黒白金圖』等、江戸期の地図を見ると白金台町十一丁目の西に存在する。1873(明治5)年、白金台町はそれまでの一丁目~五丁目に瑞聖寺の敷地を併せて新たに一丁目とし、六丁目~十一丁目に白金御料地を併せて二丁目とした。したがってそれ以降の地図において当町は白金台町二丁目の西となっている。
現・目黒通りを東から来て、上大崎交差点から先の両側が白金六軒茶屋町(交差点西すぐの南は白金台町十一丁目)。目黒通りは目黒不動尊への道筋であり、「目黒道」又は「白金通り」と呼ばれていた。白金六軒茶屋町は江戸中心部からお参りに来る場合、やっと白金を抜け、あともう少しというところに設けられた茶屋町だった。
現在の上大崎交差点の北西側には鎌作り観音・光雲寺があった(1875(明治8)年廃寺)。西隣の白金永峯町との境界が曖昧に描かれ、町域を特定しづらい資料が多いが、1912(大正元)年発行の『東京市及接続郡部地籍地図下卷』は、東京府荏原郡大崎村に吸収された後の地名である「字六軒茶屋」と「字永峯通」との境がハッキリと描かれている。なお、『大江戸今昔めぐり』では、光雲寺を挟んで東西、高福院の現・目黒通りを挟んだ南北に存在する。
「正徳三巳年閏五月中町奉行坪内能登守様丹羽遠江守様松野壱岐守様御勤役中町方御支配ニ相成申候」とある(備考)。鎮守は雉子神社。
慶応4年(明治元年)6月19日(1868年8月7日)又は慶応4年(明治元年)6月29日(1868年8月17日)、武蔵知県事上大崎村に所属。明治2年1月13日(1869年2月23日)又は明治2年2月9日(1869年3月21日)、品川県荏原郡上大崎村に所属。明治4年11月14日(1871年12月25日)又は明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府荏原郡上大崎村に所属。
1878(明治11)年11月2日、東京府荏原郡上大崎村に所属。1889(明治22)年5月1日、町村制施行により、上大崎村は下大崎村、谷山村の大部分、桐ヶ谷村、居木橋村、白金村の一部、北品川宿の一部、芝区白金猿町の一部とともに大崎村を発足させ、当町は東京府荏原郡大崎村大字上大崎字六軒茶屋となる。1908(明治41)年8月1日、大崎村が町制施行して大崎町となる。当地は東京府荏原郡大崎町大字上大崎字六軒茶屋となる。
1932(昭和7)年10月1日、荏原郡全域が東京市に編入となる。大崎町町域は東京府東京市品川区に編入となり、大字上大崎字六軒茶屋は上大崎二・三丁目に編入となり消滅。
撮影場所:白金六軒茶屋町
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