【荏原】南品川猟師町
町名:南品川猟師町
読み方:みなみしながわりょうしまち Minami-Shinagawa-Ryōshimachi
区分:町丁→大字
起立:1655(明暦元)年
廃止:1932(昭和7)年9月30日
冠称:「南品川」
現町名:品川区東品川一丁目
概要:武蔵国荏原郡品川領のうち。「すさき」とも「洲崎猟師町」とも呼ばれ、「冽崎猟師町」とも書かれた。俗称「品川浦」。目黒川の河口から北品川宿に沿って突出した南北に長い帯状の地に形成された町で、文政年間(1818~1831年)の家数は135戸であった(新編武蔵)。
その昔は「兜島」と呼ばれ、人家は無かった。漁業を生業として、幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)の1つだった。品川浦の当町に対し、浜川より南の現・鮫洲にあった町を「大井村御林猟師町」といった(江戸の外のため非掲載だが、南品川宿のページの後ろに特別掲載)。
1655(明暦元)年、南品川宿三丁目に居住していた漁民が、徳川家綱を祝うため来日した朝鮮使節(第6回目)の江戸参賀の際の伝馬役負担を拒否したため(伝馬役課税免除を願ったため)、宿内の居住を禁止され、人家もなかった北品川宿東側の寄洲「兜島」に強制移転させられ、当町を起立。目黒川より北にあるのに「南品川」を名乗るのはそういった経緯があった。以後、浦役、御菜御用を務める漁師町を形成した。
『元禄郷帳』には南品川町(南品川宿)の枝郷と記され、石高は9石余。以後、『天保郷帳』、『旧高旧領』には記載がなく、『新編武蔵』には当町の石高は南品川町(南品川宿)に含まれるとある。
元禄期(1688~1704年)には猟師抱の網干場を持つ。戸数40戸前後の純漁村として発展した。『新編武蔵』には「此浦の船数都て六十六、其内南品川分小茶船十二、猟船一、湯船一、北品川分茶船十三、荷足船三十、湯船一、猟師町分荷足船八、皆川船改所極印の船にて税を出す」とある。
当町に接して利田新地と天王洲があった。利田新地は、1774(安永3)年、南品川宿の名主利田吉左衛門が洲崎の突端を埋め立てたもので、「南品川新開場」、「利田新田」とも呼ばれ、のち北品川宿から直接橋が架けられ、人が住むようになった。また、天王洲一帯は沿岸漁民による海苔採取場があり、江戸中期以降、浅草名物となった浅草海苔の原料を供給した。
当町は「品川浦」とも呼ばれ、芝金杉浦、本芝浦、羽田浦等とともに御菜八ヶ浦の1つで、将軍家へ御菜肴を献上した。1732(享保17)年には当町と大森村の猟師が烏賊を獲る作り藻を海中に入れたため、被害を受ける本芝、金杉、御林町、羽田猟師町の4ヶ所が代官所へ訴えるという事件が起きている。
御菜肴は毎月4度献上したが、1792(寛政4)年には代銀納となった(備考)。1793(寛政5)年、『去子年分南品川宿年貢皆済目録』には「永三貫六百三拾文五分 御菜肴永代」と見える(品川区史資料篇)。御菜肴献上は、1810(文化7)年、代銀納から再び生魚による献上となり、月1度になった。御菜肴8ヶ浦で漁最初の魚を上納し、船役年600文を納めた。主な物産は海苔、白魚、干し鮃、鱚、黒鯛、穴子、鮎魚女等(新編武蔵)。
当町は御菜肴8ヶ浦の1つとして発展し、化政期(1804~1830年)の家数135軒、85隻の漁船を有していた。また、将軍放鷹のときの船着場と網干場があった。町内の寄木明神社は、橘姫入水の時の船の残木を漁民が取り上げて祀ったと伝える(新編武蔵)。
猟師町の地先は、江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門の姓を採って「利田新地(かがたしんち)」と呼ばれた。幕末、この地の東側に「御殿山下砲台」が築造された(現在の品川区立台場小学校周辺)。『江戸名所図会』には、南品川猟師町と利田新地の名所として、洲崎弁天と寄木明神社の2ヶ所が挿し絵とともに紹介されている。
南馬場(南馬場町)や奥馬場(現・南品川四丁目の一部)の井戸の水は水屋によって販売されており、当町の殆どは飲用に適した井戸がなく、その水屋から購入していた。
慶応4年(明治元年)6月19日(1868年8月7日)又は慶応4年(明治元年)6月29日(1868年8月17日)、武蔵知県事管轄地に所属。明治2年1月13日(1869年2月23日)又は明治2年2月9日(1869年3月21日)、品川県荏原郡に所属。明治4年11月14日(1871年12月25日)又は明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府荏原郡に所属。1872(明治5)年の戸数154・人口800、物産に乾海苔があった(府志料)。
1889(明治22)年5月1日、品川歩行新宿、南品川宿、利田新地、二日五日市村、北品川宿の一部が合併し、荏原郡品川町が発足。東京府荏原郡品川町大字南品川猟師町となる。
1932(昭和7)年10月1日、品川町、大崎町、大井町の3町が合併して東京府東京市品川区が発足。その際に当時の東品川二丁目に編入となり消滅。現行の東品川一丁目。
※『角川日本地名大辞典』では「明治元年東京府に編入」とある。
撮影場所:南品川猟師町
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