【荏原】中目黒町

町名:中目黒町

読み方:なかめぐろちょう Naka-Megurochō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1889(明治22)年4月30日

冠称:なし

現町名:目黒区下目黒一・二丁目(入会地だった地域は除く)

概要:古くは武蔵国荏原郡馬込領のうち。1524(大永4)年頃、目黒地域は北条氏の治下に入る。1590(天正18)年、三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が徳川氏の直轄地となる。1610(慶長15)年、芝増上寺領となる。

1746(延享3)年、下目黒村・中目黒村の町並地が町奉行支配地となり、「下目黒町」、「中目黒町」と唱える。中目黒町となったのは6反余。同年、増上寺36世祐天上人が中目黒村のうちに祐天寺を開山。境内8,500坪、村高のうち51石余が寺領となる。鎮守は八幡神社、名主は鏑木家。当時の家数27軒(備考、町方書上)。一橋家、青山下野守、松平主殿頭等の抱屋敷があった(新編武蔵)。

1769(明和6)年、目黒川の太鼓橋が完成。1812(文化9)年、湯島天神とともに目黒不動で富籤の興行が許され、1814(文化11)年頃から目黒不動の門前町が繁昌する。目黒三社は「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と麦打歌に歌われたが、内訳の大鳥は大鳥神社、不動は目黒不動、金毘羅は高幢寺(こうとうじ)金毘羅権現社(廃寺)。

目黒三社の中でも、目黒不動は目黒詣での人々で大いに賑わった。近くには行人坂上の夕日が岡(夕日の丘)等の景観地、俗に「蛸薬師」と呼ばれる成就院や蟠竜寺もある。少し足を伸ばせば、名刹・祐天寺もある。娯楽の少ない昔のこと、寺社詣でといっても信心と娯楽の両方を兼ねていた。行人坂から目黒不動尊門前までの道筋には、料理屋や土産物屋がぎっしりと建ち並んでいた。人気のあった土産物は名物餅花、目黒飴。餅花は木の枝に小さく丸めた五色の餅を付けたもの。飴は桐屋が有名で『江戸名所図会』にその繁盛ぶりが窺える。なお、黄表紙の嚆矢となった恋川春町の『金々先生栄花夢』(1775(安永4)年刊)は目黒不動門前の粟餅屋が舞台となっている。これは町域では下目黒町であろうと考えられる。

目黒には遊郭がなかったので、目黒詣でを終えた江戸っ子の足は、品川宿へ向くことになる。品川宿はするりとは通り抜けられない「難所」だったらしい。当時の川柳には、目黒詣で帰りを詠んだものが何首かある。「餅花を 提げて難所へ さしかかり」「言訳けの おみやを召せと 桐屋言い」。賑やかな目黒不動が一層賑わったのは、官許の富籤興行の日であった。町の繁華ぶりはこの地域が朱引外とされつつも、墨引内(江戸町奉行の管轄地)に組み込まれたことで明らかであろう。

江戸中心部から目黒道を歩き、白金台町白金六軒茶屋町白金永峯町まで来ると2股に分かれる。右の道は権之助坂、左の道は行人坂。行人坂には明和の大火の火元になった大円寺がある。

『目黒白金圖』によると、行人坂中腹の右手側は下目黒町、太鼓橋北側の東詰・西詰は中目黒町、南側の東詰は下目黒町となっている(別の地図によるとこの附近は「目黒町」となっているが…)。また、目黒川の西については、現・山手通りを渡る手前の威得寺の周り(道向こうの蟠竜寺(岩屋弁天)の前)だけが中目黒町であり、長徳寺、成就院、養安院、そして龍泉寺(目黒不動)の門前は全て下目黒町であった。これは下目黒村の中に中目黒村の飛び地があり、それが町屋になって中目黒町となったのではないかと考えられる。なお、中目黒町の飛び地は上目黒村に多く存在していたらしい。

慶応4年(明治元年)6月19日(1868年8月7日)又は慶応4年(明治元年)6月29日(1868年8月17日)、武蔵知県事管轄地に所属。明治2年1月13日(1869年2月23日)又は明治2年2月9日(1869年3月21日)、品川県荏原郡に所属。明治4年11月14日(1871年12月25日)又は明治4年12月5日(1872年1月14日)、東京府荏原郡に所属。

1889(明治22)年5月1日、町村制施行により、三田村、下目黒村、中目黒村、上目黒村、下目黒町、中目黒町が合併して東京府荏原郡目黒村が発足。行人坂南北は目黒村大字下目黒字坂下に、威得寺・蟠竜寺のある地域は目黒村大字下目黒字西耕地に、行人坂の西南部と目黒不動の北東部は目黒村大字下目黒字下耕地に、羅漢寺以東は目黒村大字下目黒字瀧下となり、江戸期からの「中目黒町」は消滅。「中目黒」自体は現在も旧中目黒村村域において存続。

撮影場所:中目黒町

撮影地:目黒区下目黒二丁目2番(目黒川 太鼓橋西詰北側)

白金永峯町 丹方町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:市ヶ谷田町下二丁目