【南豊島】大久保簞笥町
町名:大久保簞笥町
読み方:おおくぼたんすまち Ōkubo-Tansumachi
区分:俗称
起立:明治維新から
廃止:不明
冠称:「大久保」
現町名:新宿区大久保一・二丁目、歌舞伎町二丁目
概要:江戸に複数あった御簞笥町の1つ。他に四谷御簞笥町、小石川御簞笥町(上町・仲町・下町)、牛込御簞笥町、下谷御簞笥町、麻布御簞笥町があった。
「新編武蔵風土記稿」(1810~1830年頃編纂)には、「1591(天正19)年に家康が鷹狩りに出かけた際、お供に召した『大簞笥組の頭』榊原小兵衛の組が土地を拝領した」と当町の由来が書かれている。
大久保通りは、江戸時代「御簞笥町通り」と呼ばれ、通りを挟んで南北に広がる土地が御簞笥奉行の同心たちに与えられた。この辺りは江戸とは言えど、周縁部のために、尾張屋板の切絵図には入っていないが、近江屋板には端ぎりぎりに「大クボ御タンス丁」と書かれており、江戸時代の他の地図にも「御簞笥奉行同心給地」「ヲタンスクミ」「御簞笥町通」と見え、ここが御簞笥奉行組に由来する「御簞笥町」だったことが判明する。
街並みにその名残がある。大久保通りを歩くと、何本もの細い路地が直角に交わり、それが数百メートル真っ直ぐに延びている。江戸後期の地図のまま現在も区画は変わっていない。このように細長い区画になった理由として「家康は1591(天正19)年に簞笥組に土地を与えた際、翌年には秀吉の朝鮮出兵で簞笥組の同心たちは遠国に赴くため、近隣同士がくっついていれば、残る妻子は心強いだろうという配慮から、間口を狭く奥行きを長くするようにと命じた」と『新編武蔵風土記稿』に書かれている。
『内藤新宿新屋敷辺之図』では「大クボ御タンス丁」とあるが、明治以降の地図では『東亰明細圖 : 新撰區分』(1876(明治9)年)にはハッキリと「大久保簞笥丁」「大クボタンス丁」とあるが、他は大久保村大字西大久保字北裏、字仲通等となっている。
撮影場所:大久保簞笥町
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