【北豊島】下宿
町名:下宿
読み方:しもじゅく又はしもしゅく Shimo-Juku or Shimo-Shuku
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1872(明治5)年
冠称:なし
現町名:板橋区弥生町
概要:豊島郡野方領のうち。上板橋村は川越街道の継立場で、「上板橋宿」とも称す。幕府領。『田園簿』の村高は866石余、うち田388石余・畑498石余。検地は1674(延宝2)年。村高は2,642石余となり、幕末に及ぶ(元禄郷帳、天保郷帳)。化政期(1804~1830年)の家数397軒、助郷は中山道板橋宿に出役、名主は河原与右衛門家の世襲。今川氏真書状1点を所蔵(新編武蔵)。
板橋の地名は既に平安時代には存在していた。江戸時代初期、武蔵国豊島郡板橋村が上板橋村(上板橋宿)と下板橋村(下板橋宿)に分割される。「板橋宿」として有名なのは下板橋村(下板橋宿)であり、比較すると上板橋宿はかなり地味な印象。それもそのはず、町並み6町40間(約740m)、家数90戸ということだからかなり小さなものだった。問屋場や本陣は設けられておらず、問屋場と本陣の役目を務めたのは名主の河原与右衛門宅であった。川越街道(川越・児玉往還、現・国道254号)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸中心地から川越街道を進むと、日大病院入口交差点に出る。そこを斜め右に入る道があるがそれが旧川越街道(現・下頭橋通り)。そこが上板橋宿下宿の始点である。
1868(慶応4)年8月7日(旧暦6月19日)、武蔵知県事管轄区域となる。1869(明治2)年3月10日(旧暦1月28日)、発足した大宮県に所属。1869(明治2)年11月2日(旧暦9月29日)には、大宮県が「浦和県」と改称。浦和県に所属となる。1872(明治5)年1月8日(旧暦1871(明治4)年11月28日)、東京府に編入。東京府豊島郡に所属。同年の戸数405・人口2,376、馬56匹、農車99両・人力車10両・荷車4両(府志料)。同年、伝馬・宿駅制度が廃止となる。下板橋宿と違い、「上板橋宿」は公式地名ではなかったのでこのサイトではこの時点で廃止とする。
以下は上板橋村の沿革として記述する。
1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡が誕生。東京府北豊島郡上板橋村のうちとなる。1884(明治17)年、連合戸長役場が設置され、上板橋村は下練馬村、上練馬村、長崎村との四ヵ村連合となる。1889(明治22)年4月1日、1村で自治資力があったので上板橋村は独立。飛地は板橋町に譲る。人口は1898(明治31)年に3,098人、1916(大正5)年には3,469人、1925(大正14)年には5,040人、1930(昭和5)年には8,454人。1914(大正3)年に東上鉄道が池袋~田面沢間に開通、上板橋駅が同年6月17日に開業。
1932(昭和7)年10月1日、上板橋村は板橋町、志村、赤塚村、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村と合併し、東京府東京市板橋区となり消滅。なお、1947(昭和22)年8月1日には板橋区より練馬区が分区。旧上板橋村域の内、小竹町と江古田町(現・旭丘)が練馬区として移管される。
撮影場所:下宿
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