【南葛飾】小梅五之橋町
町名:小梅五之橋町
読み方:こうめごのはしちょう Koume-Gonohashichō
区分:町丁
起立:寛文年間(1661~1673年)
廃止:1872(明治5)年
冠称:「小梅」
後身:本所五ノ橋町
現町名:江東区亀戸六丁目
概要:葛飾郡西葛西領のうち。古くは小梅村のうち。寛文年中(1661~1672年)、源森川堀割の際に召し上げられた百姓商家が五之橋際に代地を与えられ、小梅五之橋町を起立。1713(正徳3)年、町奉行支配となる(備考)。『新編武蔵』は当町を小梅村の小名として記す。化政期(1804~1830年)の家数20軒(町方書上)。
『葛西志:東京地誌史料第1巻』には「小梅五ノ橋町は、中ノ郷五ノ橋町の続きなり、ゆへにその名をおへり、長壹町余もあるべし、又此町の東につゞきて、商家軒を並べたれど、みな亀戸村百姓の住宅にして、町奉行の支配には隷せざる地なり」とあるが、中之郷五之橋町と小梅五之橋町の間の西隣にも亀戸村の飛び地があったようだ(アプリ『大江戸今昔めぐり』にはない)。
また同書の中ノ郷代地五ノ橋町(中之郷五之橋町)の項には、「中ノ郷代地五ノ橋町は、北松代町の東へつゞけり。昔此町の西より五ノ橋を掛渡たれば、名とせりと」とあるので中之郷五之橋町は竪川五之橋を通す明治通りの東側にあることは間違いない(地図によっては明治通りの西側にも存在するので両側町でもあった?)。
とにかくここが江戸町の最東端。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、中之郷五之橋町と合併し、本所五ノ橋町に編入となり消滅。
町内にある顕松山安住寺自性院は、市村座座元の4代目 誠阿法印が出家したことから「役者寺」とも呼ばれている。近年では全国的な人気を得る直前に飛び降り自殺したヒルビリー・バップスのヴォーカル・宮城宗典が眠る。「施無畏観音」と呼ばれる彼の供養塔には今でもファンが多数参拝に訪れる。
※『角川日本地名大辞典』には「明治2年本所五之橋町となる」とあるが間違い。
撮影場所:小梅五之橋町
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