【下谷②】谷中感応寺表門前新茶屋町

町名:谷中感応寺表門前新茶屋町

読み方:やなかかんのうじおもてもんぜんしんちゃやまち Yanaka-Kannōji-Omote-Monzen-Shin-Chayamachi

区分:町丁

起立:1703(元禄16)年

廃止:1833(天保4)年か

冠称:「谷中」

後身:谷中天王寺表門前新茶屋町

現町名:台東区谷中六丁目4番、七丁目4・5番の南半部

概要:他の感応寺関係の町は、寺が感応寺から天王寺に改称したときに町名も改めたが、『角川日本地名大辞典』にはこの町について同様の記述が無く、「谷中感応寺表門新茶屋町」の項に「谷中天王寺表門前新茶屋町ともいう」とある。感応寺の時代には「谷中感応寺表門新茶屋町」と、天王寺に替わってからは「谷中天王寺表門前新茶屋町」と呼んだことには間違いない。

感応寺は「長耀山」と号し、応永年間(1394~1427年)の創建と伝える。はじめ日蓮宗に属したが、元禄年間(1688~1704年)に寺僧が罪を犯して流刑に処せられたため、1699(元禄12)年に幕命で天台宗に改宗し、比叡山延暦寺の末寺となる。1833(天保4)年、「護国山天王寺」と改号。当町は1702(元禄15)年、住職の仏頂院が茶屋町にすることを願い出て1703(元禄16)年に起立したが、茶屋は貞享年間(1684~1688年)からあったようである。感応寺表門の前に位置し、下谷広小路(上野広小路)の御木具屋・勝井吉左衛門を名主役とし、いのじや庄兵衛がはじめて煮売料理茶屋を始めた。俗に「谷中いろは茶屋」ともいった。『備考』には、京都のいろは茶屋を模し、茶屋の並ぶ町としたとある。いろは茶屋は私娼街で、寺僧が多く出入りした様が洒落本『世説新語茶』に活写され、また川柳の題材ともなっている。はじめ感応寺領であったが、1745(延享2)年に町奉行支配となった。俗に北側を「通り表」、南側を「通り裏」とも称した。

他の感応寺関係の町同様、1833(天保4)年頃に「谷中天王寺表門前新茶屋町」と改称して消滅した。

撮影場所:谷中感応寺表門前新茶屋町

撮影地:台東区谷中七丁目4番2号(谷中木楽庵)

谷中天王寺表門前新茶屋町 谷中金嶺寺町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。