目黒2町について

左:名所江戸百景「目黒太鼓橋夕日の岡」、右:江戸自慢三十六興「目黒不動餅花」




さて、朱引内は向島や雑司ヶ谷等の江戸野菜収穫のための農地を含んでいましたが、墨引内は江戸町奉行の管轄地、いわゆる「都市部」を表すようなものでした。墨引は朱引の内側に存在するコア地域と考えると判りやすいでしょう。


しかし墨引のうち、朱引から西に飛び出た不思議な地域があります。


そう、下目黒町中目黒町です。


以下はその目黒の2町について書きたいと思います。




「朱引外なんだから、あすこは江戸じゃあんめえ」という意見もあるかと思います。しかしこのサイトでは採用しています。その理由を以下に書きます。


何故、下目黒町中目黒町が朱引から外されたか、その理由を考えてみましょう。実は下目黒町中目黒町の2町は1746(延享3)年には既に町奉行支配地となっていました。のにもかかわらず、朱引から外されたのです。


それは、戦の起こらぬ平和な江戸期、武士の地位や威厳が失墜していたことに原因があるようです。当然、武士にも気の緩みが出ており、町民に混ざって遊行三昧なんてことになっていました。

牧野助左衛門から「江戸ってどこまで?」と訊かれた阿部正精、色々悩んだ結果、「目黒なぞリゾート地ではないか。そのような地に武士がレジャー気分でちゃらちゃら行ってはならぬ。ってことで」と朱引から外したのだそうです。


しかし、一大観光地である目黒は何かとトラブルが多いため、恐らく周りからの助言でしょうが、「うむ、いや、しかし、町奉行が取り締まる地域としておこう」という決断を下し、下目黒町中目黒町を墨引内としたというのです。


よく言われる「目黒は農地だけど目黒不動の門前だから例外的に墨引内となった」というのは合っているようで合っていません。「目黒」と言うからそういう解釈が生まれるのです。

「目黒」であっても、町並地となった地域(下目黒町中目黒町)は農村とは別物なのですから、地方(じがた)の下目黒村・中目黒村がどんなに鄙びた農地であろうと「目黒」と一括りにするのは間違っています。


繰り返します。現に行人坂からお不動さんまでを除けば目黒は純然たる農地でした。特に筍の里としても有名でした。しかし目黒不動門前の活況っぷりは半端ではなく、それは武士としての体面を崩すぐらいのものだったようです。「目黒は農地」、それは間違いありませんが、町地化した2町だけは独立した全くの別世界であり、それは雑司ヶ谷鬼子母神界隈の町屋や亀戸天神の門前町屋についても同様なのです。雑司ヶ谷村にも亀戸村にも門前は町屋となり、村から独立した町がありました。目黒の2町もそれと同じことなのです。下目黒町中目黒町はそれぞれ下目黒村と中目黒村から独立した江戸町だったのです。


なので「何故、目黒2町が朱引から外されたのか」という問いに対して「それは目黒は農地だから」と答えるのは完全な間違いであり、「弛んだ武士に対する戒めのためだった」と見た方が正解かと思います。


以上の理由から、このサイトでは目黒2町を江戸の内として扱っています。




なお、このサイトでは、上目黒村の以下の2地域も掲載しています。

①目黒川左岸側…朱引図に朱引が引かれているのは確かに目黒川の左岸側ではあるが、朱引の範囲を「目黒辺」としか定めていないため、目黒川左岸側に位置する上目黒村のうちの俗称「石川町」、「柳町」等も掲載しました。

②祐天寺門前…現在の駒沢通りが祐天寺の門前として機能していたようなので、駒沢通りの北側の上目黒村に属する町屋を含まないのは不自然であることから掲載 …地名に「町」が付いていませんが特別に掲載しています。

※祐天寺から祐天寺駅までのみよし通りを門前だと勘違いしている人が多いようですが、それは1927(昭和2)年8月28日に東横線が開通したため、町の機能が変わり、人の流れが変わったことでそう思うのでしょう。実は寺前から山手通りにぶつかるまでの現・駒沢通りが「祐天寺道」と呼ばれ、参道の役割を果たしていたのです。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:寺島村大字寺島字前沼