【深川②】深川森下町

町名:深川森下町

読み方:ふかがわもりしたちょう Fukagawa-Morishitachō

区分:町丁

起立:江戸期(江東区は寛文年間(1661~1673年)としている)

廃止:1872(明治5)年

復活:1931(昭和6)年

廃止:存続 「森下」として

冠称:「深川」

後身:深川西森下町

現町名:江東区森下一・二丁目

概要:小名木川の北に位置する。町名の由来は明暦(1655~1658年)・万治(1658~1661年)年間頃、酒井左衛門尉屋敷内に木立があり、俗に「森下」と称していたことによる。切絵図では六間堀の東に位置し、町内中程に神明宮が見える。古くは深川村のうち。寛文年間(1661~1673年)から町場化した。1713(正徳3)年、町奉行・代官両支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数906軒(町方書上)。深川上森下町深川森下町南組深川森下町北組に分かれ、深川上森下町には「神明中門」、深川森下町南組には「裏門」、町内を四角に縁が回るので「膳の縁」、深川森下町北組には「竹河岸」の俗称があった(備考)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、深川森下町、深川北森下町深川南森下町と3分。1872(明治5)年、さらに深川森下町は深川東森下町深川西森下町に分裂して消滅。

しかし、帝都復興計画の一環として、1931(昭和6)年に東六間堀町が一丁目として、1934(昭和9)年には東森下町が二丁目として、西森下町が一丁目の東部として編入され、森下町復活。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。その際、再び「深川」の冠称を付す。

1971(昭和46)年4月1日、住居表示の実施により、深川森下町一丁目、深川新大橋三丁目の一部が森下一丁目に、深川森下町二丁目の一部が森下二丁目に、深川森下町二丁目の一部、深川高橋二・三丁目が森下三丁目に、深川高橋四丁目が森下四丁目に、深川高橋五丁目が森下五丁目となり、現行の森下一~五丁目となる。

※『角川日本地名大辞典』の森下の項に、住居表示の実施直前の町の構成として「深川森下町2丁目・深川高橋2~5丁目、深川高橋1丁目の一部」とあるが間違い。『Wikipedia』も同様。また、現行の町名も「森下1~3丁目・新大橋1~3丁目となる」とあるが間違い。

撮影場所:深川森下町

撮影地:江東区森下一丁目2番3号(千代勢)

深川森下町南組 深川上森下町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。