【深川①074】深川東六間堀町

町番号:深川①074

町名:深川東六間堀町

読み方:ふかがわひがしろっけんぼりちょう Fukagawa-Higashi-Rokkemborichō

区分:町丁

起立:1871(明治4)年

廃止:1931(昭和6)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」

現町名:江東区常盤二丁目、森下一丁目

概要:切絵図では六間堀を挟んで東と西に位置した。江戸初期は葛飾郡西葛西領深川村の分郷六間堀のうち。寛永(1624~1645年)~天和年間(1681~1683年)に百姓町屋ができた。1713(正徳3)年、町奉行・代官両支配となる。町内を中之橋を境に北組南組の2組に分け、各々自身番屋を置いた。1697(元禄10)年、松平遠江守・堀田伊豆守の屋敷が設けられた際、代わりに牛込岩戸町等に代地が与えられたが、年貢は深川六間堀町の名主に差し出された。化政期(1804~1830年)の家数738軒。当時の鎮守は六間堀神明宮(深川神明宮)で、深川村の開拓者の深川八郎右衛門が以前から当地にあった小祠を祀ったもの。森下一丁目に現存する当社の別当寺は天台宗医王山妙王院泉養寺、他に黄檗宗恵日山真光寺・同福聚山泰耀寺があったが移転。跡地は町並屋敷となる。

前身の深川六間堀町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、北組を「深川北六間堀町」、南組を「深川南六間堀町」と改称。1871(明治4)年、今度は六間堀を境に東西に分け、深川東六間堀町と深川西六間堀町が成立。1872(明治5)年の戸数389・人口1,507(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。

1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、常盤町二丁目、森下町一丁目に編入となり消滅。現行の常盤二丁目、森下一丁目のうち。

撮影場所:深川東六間堀町

撮影地:江東区森下一丁目10番5号(興栄自動車工業)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。