【神田①026】神田旅籠町

町番号:神田①026

町名:神田旅籠町 一~三丁目

読み方:かんだはたごちょう Kanda-Hatagochō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1964(昭和39)年11月30日

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」

現町名:千代田区外神田一、三丁目

概要:町名は江戸中期まで当地が板橋(中山道の第一の宿場である板橋宿)と川口(日光御成街道の宿場町である川口宿)方面への起点にあたるため、宿屋が多くあったことから。もと昌平坂外河岸通りにあったが、1682(天和2)年の八百屋お七の大火で収公され、「加賀原」といわれた加賀金沢藩前田氏中屋敷後に代地が与えられた。1694(元禄7)年、神田旅籠町と地続きの馬喰町四丁目代地、神田元柳原六丁目の切地代地が合併して神田旅籠町二丁目と改称。もとからの神田旅籠町が一丁目となった。一丁目には1657(明暦3)年まで東本願寺があり、寺域には「本願寺の井戸(後には加賀井戸)」と呼ばれた名井があった。また1791(寛政3)年から毎年12月21・22日の両日、正月用の飾り物を売る神田明神の市が立った。1750(寛延3)・1848(嘉永元)年には勧進能が興行された。

町名の由来となった旅籠は、幕末の頃には殆ど姿を消した。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永年間(1848~1854年)の頃まで残っていた旅籠は僅か1軒のみで、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1868(明治2)年、従来の二丁目に学問所掃除屋敷代地、神田明神門前町代地、湯島一丁目代地、湯島二丁目代地、本郷五丁目代地、本郷六丁目代地が編入。さらに筋違橋門外講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目となった。1872(明治5)年の戸数370・人口1,539(府志料)。明治期になると三丁目に薩摩座、歌舞伎座ができた。神田区代用芳林小学校、講武稲荷社等の他、料理屋や待合、旅館が多く、講武所芸者で代表される花街として繁栄した(画報)。

1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。

1964(昭和39)年12月1日、住居表示の実施により、外神田一、三丁目に編入となり消滅。

撮影場所:神田旅籠町二丁目

撮影地:千代田区外神田一丁目8番14号(とんかつ丸五)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。