【日本橋①092】浜町

町番号:日本橋①092

町名:浜町 一~三丁目

読み方:はまちょう Hamachō

区分:俗称→町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」

現町名:中央区日本橋浜町一~三丁目

概要:町名は安政版切絵図に「ハマ丁」とあるように、大川端を里俗に「浜町」といったことによる。開府当時、文字通りの海浜であったが、神田山(現在の駿河台)を削り埋め立てられ、少しずつ武家屋敷が集まり、幕末は武家地となった。諸大名の武家地、西寄りの山伏井戸(久松町の裏)近辺には幕府医官多紀元堅、蘭学医杉田玄白、書家大竹蒋塘等が居住し(画報)、また1764(宝暦14)年、賀茂真淵も移り住んだという(江戸名所)。

1872(明治5)年、上野館林藩秋元氏中屋敷、肥後熊本藩細川氏下屋敷等の旧武家地に正式に一~三丁目を起立。同年の戸数334・人口1,477(府志料)。隅田川沿いには2、3の華族邸があり(画報)、板垣退助の仮住まいも山伏井戸付近にあった。1873(明治6)年、山縣有朋により開店した料亭「常盤」は一流紳士の集会所として繁盛し、浜町一帯の料亭が置かれる基となった。

1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。その際、菖蒲町を三丁目に編入。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。

関東大震災により一面焼け野原となり、全町域に土地区画整理が行われ、浜町公園が設置された。浜町公園は、旧熊本細川藩の庭園で清正公寺もその一隅にある。嘗て、今の中央区立浜町公園の辺りから両国橋の辺りまで隅田川沿いに往来があり、「浜町河岸」と呼ばれた。浜町河岸は新内流しが開かれるなど風流な所だったという。浜町公園の改修によって、今尚当時を偲ぶ隅田川の眺望が楽しめるようになった明治座は、場所も何度か移り変わり、名称も「喜昇座」から、「久松座」等と変わったが、電灯を最初に使用した劇場として1893(明治26)年ここに開場し、黙阿弥の名作を多く初演した。

1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。当町は第二次世界大戦中の戦災被害も甚大で、1945(昭和20)年の空襲では、明治座に避難した人々数百人が焼死した。なお、明治座前の通りは、昔の金座(今の日本銀行)に運搬する材料を浜町河岸から陸揚げして運んだ道なので「金座通り」と呼ばれている。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。

1971(昭和46)年1月1日、住居表示の実施により、日本橋久松町の一部を二丁目に編入し、現行の日本橋浜町一~三丁目となる。

撮影場所:浜町二丁目

撮影地:中央区日本橋浜町二丁目31番(明治座 笠間出世稲荷神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。