【日本橋①093】中洲町
町番号:日本橋①093
町名:中洲町
読み方:なかずちょう Nakazuchō
区分:町丁
起立:1886(明治19)年
廃止:存続 「日本橋中洲」として
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」
現町名:中央区日本橋中洲
概要:中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。「大川洲渚」ともいわれた。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯は「みつまた」(「三派」、「三ツ俣」、「三つ股」、「三叉」等、表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目にあたるため、「別れの淵」と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695(万治2)年、吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。1771(明和8)年7月27日(6月16日)、馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773(安永元)年1月10日(12月18日)に「中洲新地」として竣工した。1775(安永4)年には町屋が整い、「三股富永町」と号した。間もなく観月納涼の名所となり、93軒の茶屋が建ち並ぶほど賑わう一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789(寛政元)年~1790(寛政2)年、取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。安政江戸図では葭の緑生地が描かれている。
1886(明治19)年、再び埋め立てられ、「中洲河岸」が成立、後に「中洲町」となった。深川佐賀町への渡船があり、汽船・船舶の往来が絶えなかった。
1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。1893(明治26)年、真砂座ができると、中洲は茶屋や割烹店等が建ち並び、娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、1917(大正6)年には早くも廃れた。
1935(昭和10)年、帝都復興計画の一環により、「中洲」と改称。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。
1971(昭和46)年4月1日、そのまま住居表示が実施された。同年、浜町との境、翌年に箱崎町との境である箱崎川が埋め立てられ、完全に地続きとなった。「なかす」と、清音で呼ぶようになったのはいつ以来のことであるか不明。
撮影場所:中洲町
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