【赤坂①006】赤坂新町

町番号:赤坂①006

町名:赤坂新町 一~五丁目

読み方:あかさかしんまち Akasaka-Shimmachi

区分:町丁

起立:1640(寛永17)年

廃止:1966(昭和41)年6月30日

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「赤坂」

現町名:港区赤坂二・三、五~七丁目

概要:一丁目は豊島郡貝塚領人継村(ひとつぎむら)のうちで、1640(寛永17)年、千代姫付の侍3人が拝領して、赤坂新町一丁目と改めた。1641(寛永18)年、さらに奥火の番等3人が拝領したが、1668(寛文8)年に願い出て町並家作が許された。1673(延宝元)年、町奉行支配となる。二・三丁目は、もとは一木村(ひとつぎむら)の田地。1641(寛永18)年、武家方町並屋敷となり、1696(元禄9)年7月、拝領町屋敷となった四・五丁目は松平安芸守中屋敷の置かれた所。1695(元禄8)年、上地となり、跡地を武家が拝領したが、その後、町屋となった年代は不明。五丁目の南西の部分は、馬場が置かれていた所で1696(元禄9)年、坊主10人の町屋となったという(沿革図書)。町名は新たに起立した町の意か(備考)。1827(文政10)年の家数635軒、うち地主16(他7人他住居)・家主11・家守31・地借96・店借444・空家38。町内には「竈横町」、「左横町」、「皀角横町」、「大沢町」、「釜屋横町」、「新店」、「多賀谷横丁(箍屋町、𥶡屋町とも)」、「水谷小路」等の里俗称が多い。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に三丁目の一部を赤坂一ツ木町に編入。同時に一ツ木町の飛地を三丁目に編入(己巳布令)。1872(明治5)年7月、赤坂通新町と武家地を合併。区画整理をし、一~五丁目とする。同年の戸数653・人口2,457(府志料)、物産は桐油、合羽、髢、傘、箱類、股引、腹掛、足袋、籐下駄表、筆、籐煙管筒(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。1908(明治41)年の世帯数1,058・人口4,586(市勢調査)。明治を通じ、町の西側の一ツ木通りに面して繁華な商店街を形成し、三頭銀行、呉服武蔵屋、寄席万年亭、錦絵の錦彩堂等があった(画報)。五丁目を西へ行くにつれて次第に小住宅の町となっていたが、昭和期に入るとここへも商店街が延びてきた。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦災を受けた後も元の町況に復し、日用品、食料品を扱う近隣商店を成していた。

1966(昭和41)年7月1日、住居表示の実施により、一丁目は赤坂三丁目の一部に、二丁目も赤坂三丁目の一部に、三丁目は赤坂二・三、五丁目のそれぞれ一部に、四丁目は赤坂五丁目の一部に、五丁目は 赤坂六・七丁目のそれぞれ一部に編入となり消滅。

※『角川日本地名大辞典』には「同(昭和)41年現行の赤坂3丁目13・15~21番、5丁目1番の東端、および西北端、同3番の東部、4~5番の南辺道路沿い、7丁目8~11番となる」とあるが間違い。

撮影場所:赤坂新町三丁目

撮影地:港区赤坂二丁目14番31号(金波ビル 銀座コージーコーナー赤坂店前)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿