【赤坂①008】赤坂一ツ木町

町番号:赤坂①008

町名:赤坂一ツ木町

読み方:あかさかひとつぎちょう Akasaka-Hitotsugichō

区分:町丁

起立:1696(元禄9)年頃

廃止:1966(昭和41)年6月30日

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「赤坂」

現町名:港区赤坂四・五丁目

概要:「一木」は「一ツ木」とも書いた(田園簿)。麹町台地の南、赤坂溜池の周辺に位置する。地名の由来は昔、奥州街道に沿った地で、人馬の人継を成し、「人継村」といった(1567(永禄10)年、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して「人継村」となったともある)。しかしその後、氷川神社に1本の銀杏の木があるため、「一木村」となったという(新編武蔵)。『砂子』に矢盛庄七郷の1つであったという。

また、「一木」は戦国期から見え、豊島郡に属す。初見は『役帳』で、小田原北条氏の家臣、江戸衆の太田大膳亮の所領「六拾弐貫六百文 一木貝塚 丙申検地辻」と見え、一木と貝塚が併記されたか、一木が冠称となったか判らない。『鎌倉九代記』に「1524(大永4)年、北条氏綱江戸城に押し寄せ、上杉朝興に打ち勝ち、城に入りて首ども実検し、一木原に旗を立つ」とある。徳川家康の関東入国後の1591(天正19)年11月には服部半蔵等で知られる江戸城の警護等に当たった伊賀者139人の給地に下されて「赤坂一木町屋」という百姓町屋になった(武江年表他)。

「一木村」とは江戸初期の村名で、豊島郡麻布領のうちであった(貝塚領から麻布領になったか)。寛永年間(1624~1645年)の村高370石余、1635(寛永12)年に久世、井戸、尾張徳川家の武家地となり、享保年間(1716~1736年)には311石余が上地となり、武家地となった。『田園簿』の村高は168石余、田150石、畑17石余、伊賀衆知行とある。『元禄郷帳』では「59石余一木町」とある。

1696(元禄9)年頃から、一ツ木村を「赤坂一ツ木町」と書き改めたと伝え、5ヶ所の飛び地があった他、代地も三田にあった(備考)。町奉行を務めた大岡越前守の下屋敷があったことも有名。『新編武蔵』には、1767(明和4)年に一ツ木町は紀伊殿を分かち、赤坂寄りを赤坂一ツ木町、他を上一木鮫河橋町と称したと見える。またその頃、当町は町奉行支配に入った。飛地は現行の赤坂五丁目1番31~36号、同1・2号、赤坂二丁目14番28~30号、赤坂六丁目19番52・53号、赤坂八丁目12番22・23号にあった。1827(文政10)年の家数110軒、うち家持18・家主18・地借18・店借56(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、飛地は麻布今井町赤坂氷川町赤坂新町三丁目に合併或いは改称。同年、赤坂新町の一部と赤坂浄土寺門前、赤坂願性院門前を合併。1872(明治5)年、赤坂掃除町の一部と三河大平藩大岡氏、安芸広島藩浅野氏下屋敷等の武家地、新義真言宗智剣山威徳寺をはじめとする16の寺社地を合併。同年の戸数198・人口933、物産は鼻紙入、煙草入、茶、畳付駒下駄、下駄、筆、髢(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府赤坂区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市赤坂区に所属。1908(明治41)年の世帯数359・人口3,464。明治期の当町は、兵営、寺院、学校、邸宅、商店等の諸種の街況を合わせ持っていた。特に北部東辺の通りは赤坂の主要商店街であった。1923(大正12)年9月1日の関東大震災当時に結成された自警団に端を発し、1925(大正14)年に町会が設立。1943(昭和18)年7月1日、東京都赤坂区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。戦後、町会は一旦解散していたが、1948(昭和23)年に再結成。戦後は東京放送が開設され、都心化現象の進行が伴い、急速に街況も変化し、新しい商店飲食街へと変容した。

1966(昭和41)年7月1日、住居表示の実施により、赤坂四・五丁目に編入となり消滅。現在では一ツ木公園、一ツ木通りに名称が残る。

撮影場所:赤坂一ツ木町

撮影地:港区赤坂四丁目3番(浄土寺)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。