【四谷①032】四谷霞岳町

町番号:四谷①032

町名:四谷霞岳町

読み方:よつやかすみがおかまち Yotsuya-Kasumigaokamachi

区分:字→町丁

起立:1879(明治12)年4月

廃止:存続 「霞岳町」、「霞ヶ丘町」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「四谷」

現町名:新宿区霞岳町、霞ヶ丘町、南元町

概要:古くは豊島郡野方領千駄ヶ谷村北部の俗称で「霞村」といったという。国立霞ヶ丘競技場の西側に「遊女の松」という古木があって天然記念物だった。この松ノ木はその昔「霞の松」と呼ばれ、『新宿区町名誌』によると霞は縄張りのことだから青山氏との境界の目印としたものか、新たに植えたものだろうという。奥州街道の関屋(関所)があったといい「旭の関」といったという。こちらは千代田区の霞ヶ関と違って日本武尊の伝承はない。「よつやの原」が朝霧の立つところだったから、ここも本当に朝霞の立つ地形だったのかも知れない。港区を流れる古川の源流が流れていた。

江戸時代は千駄ヶ谷町千駄ヶ谷甲賀町。1872(明治5)年5月に千駄ヶ谷町千駄ヶ谷一丁目~三丁目となる(当町域は千駄ヶ谷一丁目)。

1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に所属。しかし1879(明治12)年4月には千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷甲賀町が東京府南豊島郡千駄ヶ谷村に編入され、字霞岳・川向・甲賀町となる。さらに1889(明治22)年5月1日、東京市市制施行。

1891(明治24)年3月18日、千駄ヶ谷村字霞岳・川向・甲賀町は東京府東京市四谷区に編入され、「四谷霞岳町」となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都四谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。

2003(平成15)年9月、住居表示の実施により、霞岳町のほぼ全域と南元町の一部が「霞ヶ丘町」となる。なお、当該住居表示実施後は、四谷警察署信濃町交番(霞岳町無番地)の所在地のみが「霞岳町」として残存。理由は不明。

町域の主要部分を明治神宮外苑と都立明治公園が占め、明治神宮外苑内の国立霞ヶ丘競技場、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館等が当町域に属する。ただし明治神宮外苑のうち、南部の秩父宮ラグビー場や銀杏並木付近などは港区北青山に属する。

町域南西部には、都営霞ヶ丘アパート(霞ヶ丘団地)があったが、当町の居住人口は同アパートの住民のみだったと考えられる。1946(昭和21)年に100戸の都営住宅として長屋形式で建てられ、1964(昭和39)年の東京オリンピックに際して1960年代に建て替えられた(10棟300戸)。多くはオリンピック前からの霞ヶ丘の住民で、開催に合わせて立ち退き、このアパートに入居になったという。現在、新国立競技場建設の敷地拡張によって、取り壊されてしまっている。元は兵舎があった土地で、馬小屋も戦争で被害に遭い、馬頭観音だけが残っているという。

撮影場所:四谷霞岳町

撮影地:新宿区霞ヶ丘町10番(千寿院交差点北東側)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。