【牛込①055】牛込弁天町

町番号:牛込①055

町名:牛込弁天町

読み方:うしごめべんてんちょう Ushigome-Bentenchō

区分:俗称→町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「牛込」

現町名:新宿区弁天町

概要:古くは豊島郡野方領早稲田村に属すが、牛込村に編入。町名は牛込勝行が父大胡重行のために建立した宗参寺の近くの、勝行の子である勝重が建てた南蔵院の弁天堂に因む俗称。1680(延宝9)年、南蔵院は牛込御簞笥町に移り、お堂だけが路傍に立っている。雲居山宗参寺の寺域の内だったが門前に町が開け、1698(元禄11)年に町奉行支配地となって「牛込弁財天町」を唱えた。『新宿区町名誌』では元禄(1688~1704年)の頃から次第に町場化し、1717(延享2)年に町奉行支配となったとしている。

町内の表通りは多聞院、千手院、浄輪寺、鳳林寺、仏性寺、久成寺、南春寺(或いは法輪寺、緑雲寺)があったので、俗に「牛込七軒寺町」といった。市ヶ谷柳町との境の石段は、坂上に天台宗東叡山宝龍寺があったので「宝龍寺坂」といったが、人気がなく寂しいので「幽霊坂」ともいった。

前身の牛込弁財天町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、牛込七軒寺町の多聞院、千手院、浄輪寺、鳳林寺(宝竜寺)、仏性寺、南春寺、九成寺の寺地、門前と、俗に根来組(根来百人町)、或いは二八組、宝竜寺組と称した御先手組屋敷を併せ、「牛込弁天町」に改称。町名の由来は江戸期から俗に「弁天町」と言っていたのによる。同年の戸数153・人口488(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府牛込区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市牛込区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都牛込区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。

撮影場所:牛込弁天町

撮影地:新宿区弁天町30番地(早稲田長谷川ビル 喜久帆)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。