【小石川①004】小石川大塚坂下町

町番号:小石川①004

町名:小石川大塚坂下町

読み方:こいしかわおおつかさかしたまち Koishikawa-Ōtsuka-Sakashitamachi

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1966(昭和41)年3月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「小石川」

現町名:文京区大塚五・六丁目

概要:古くは豊島郡小石川村のうち。1692(元禄5)年、護国寺領となる。1713(正徳3)年、寺社奉行支配から町奉行支配となる。町名は富士見坂下の意(備考)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、護国寺及び付近の土地を合併。同年の戸数42・人口149(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。1891(明治24)年、もと小石川村の飛地字二貫目新田を合併。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。

1966(昭和41)年4月1日、住居表示の実施により、大塚五・六丁目に編入となり消滅。


以下、当町と縁深い護国寺についての記述。

1638(寛永15)年、江戸城外で初の幕府薬園を当町域に創設。この大塚御薬園は1万8,000坪余の敷地を持っていたが、護国寺建立に際し、薬草の大部分は麻布薬園に移された。1681(天和元)年、5代将軍綱吉の生母桂昌院の願いに応じて建立された新義真言宗豊山派護国寺は、当初寺領300石であったが、後に幕府の庇護を受け、1,200石となった。その後、1717(享保2)年に焼失した神田護持院を幕命により合併。本坊を「護持院」、観音堂を「護国寺」と称し、両寺の寺領は合わせて2,700石に上り、府内屈指の大寺院となり、音羽通りの門前町は花街として賑わった。明治維新後に護持院を廃し、「護国寺」に統一。1883(明治16)年には旧本坊、1926(大正15)年には草創当時の本堂大師堂を焼失した。当町域内の大塚先儒墓所は2代将軍秀忠、水戸藩祖頼房の儒臣人見道生が葬られたことに始まる儒葬形式の墓地。維新後は「儒者捨場」といわれたが、1901(明治34)年10月に組織された墓所保存会により整備され、1921(大正10)年には国の史跡に指定された。また、1873(明治6)年9月には隣接の権現山が「豊島岡」と改称し、明治天皇第1皇子稚瑞照彦尊の墓所と定められ、以後各宮家の墓所となった。

撮影場所:小石川大塚坂下町

撮影地:文京区大塚五丁目40番1号(護国寺仁王門)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。