【本郷①010】本郷菊坂町
町番号:本郷①010
町名:本郷菊坂町
読み方:ほんごうきくさかちょう Hongō-Kikusakachō
区分:町丁
起立:長禄年間(1457~1461年)
廃止:1965(昭和40)年3月31日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本郷」
現町名:文京区本郷四・五丁目
概要:町名は長禄年間(1457~1461年)に町屋となった頃、菊を栽培する者が多く、一円菊畑があったことによる。1628(寛永5)年、中間方の大縄拝領地となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数288軒(町方書上)。1697(元禄10)年に当町の仁兵衛をはじめとする16人がなだれ地を築き立て町地とした所は「道造屋敷」と称し、1698(元禄11)年から町奉行支配となった。16人の所有地は寛保年間(1741~1743年)一部が収公され、延享(1744~1747年)以後は「菊坂上納屋敷」と称した。その後、岡場所が置かれたため、1799(寛政11)年に取り払われ、以後は旗本・小役人の拝領地となった(備考)。東に明暦の大火の火元である日蓮宗徳栄山本妙寺が隣接していた。1657(明暦3)年正月18日に出火したこの火事は、その原因から俗に「振袖火事」ともいわれ、湯島・神田・京橋八丁堀・鉄砲洲までを延焼し、800町が焼失、10万人以上の死者を出した(武江年表)。大火以後、本妙寺寺領は縮小され武家地・町屋となった。当町は菊坂、本妙寺坂、鐙坂(あぶみざか)等、坂の多い起伏に富んだ町で(備考)、梨の木坂付近には『紫の一本』の著者 戸田茂睡が居住していた(南向茶話)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年には、道造屋敷の残地、本郷四・五丁目代地を、1872(明治5)年には付近の武家地及び本妙寺、曹洞宗祝峰山長泉寺を合併。同年の戸数233・人口892(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。富士見軒、常磐館、富士館、赤心館等、下宿屋が多かった(画報)。本妙寺脇の赤心館には、1908(明治41)年春、函館から上京した石川啄木が金田一京助と共に同年秋まで居住した。また明治20年代には樋口一葉が母と妹と住んでいた。1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
1965(昭和40)年4月1日、住居表示の実施により、現行の本郷四・五丁目に編入となり消滅。
撮影場所:本郷菊坂町
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