【本郷①001】本郷
町番号:本郷①001
町名:本郷 一~六丁目
読み方:ほんごう Hongō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続
冠称:なし
現町名:文京区本郷二~五丁目
概要:古くは豊島郡峡田領本郷村。湯島郷の中心地の意、「湯島本郷」。いつしか湯島とは別物となった。起立年代は不明。寛文(1661~1672年)の頃には既に一~六丁目に分かれていたと思われる(備考)。そのときから「本郷町」ではなく「本郷」だった。化政期(1804~1830年)の家数1,251軒(町方書上)。
一丁目には小判長屋、湯屋横町、二丁目には大横町、三丁目には兼康横町、肴店、伊豆蔵横町、油揚横町、日蔭町(日陰町)、附木店等の俗称が多かった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、本郷喜福寺門前を、1872(明治5)年には付近の武家地、天台宗富元山真光寺等の寺地を合併。同年の戸数914・人口3,515(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。明治30年代、上野及び神田からの路面電車(後の都電)が開通。現在の本郷通りには、各種商店が並んだ。特に東京帝国大学に面した三丁目には学生を対象にした書店、薬種医療器機店、絵葉書店等が並び、毎月8・12・22日に立つ夜店は有名であった。また、勧工場本郷館があった(画報)。1933(昭和8)年、東竹町、西竹町を一丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
1965(昭和40)年4月1日、住居表示の実施により、本郷一~六丁目、元町一・二丁目、弓町一・二丁目、真砂町、本富士町、菊坂町、春木町一~三丁目、金助町、台町、湯島六丁目の全部に、湯島五丁目と森川町のほぼ全部、春日町二丁目、田町、龍岡町、湯島両門町の各一部を併せた町域を一~七丁目に分けて現行の「本郷」とした。内訳は、春日町の一部、元町二丁目の全部、真砂町の一部、弓町一丁目の全部が一丁目に、本郷~三丁目の一部、元町一丁目の全部、東竹町の一部(1933(昭和8)年に既に本郷に編入)、西竹町の一部(1933(昭和8)年に既に本郷に編入)、真砂町の一部、弓町二丁目の全部が二丁目に、本郷一~三丁目の一部、金助町の一部、春木町一~三丁目の一部、東竹町の一部(1933(昭和8)年に既に本郷に編入)、西竹町の一部(1933(昭和8)年に既に本郷に編入)、湯島二丁目の一部、湯島五・六丁目の全部が三丁目に、春日町の一部、本郷四丁目の一部、菊坂町の一部、田町の一部が四丁目に、本郷四丁目の一部、本郷五・六丁目の全部、菊坂町の一部、台町の全部が五丁目に、森川町の一部が六丁目に、本富士町の全部、森川町の一部、湯島両門町の一部が七丁目になった。
現在の本郷三丁目交差点角に店を構える「かねやす」は1735(享保20)年に歯科医兼康祐悦が乳香散という歯磨き粉を売る店として開店してから小間物屋として最近まで営業を続けていた(店舗は廃業。かねやすビルは健在。ただし、本郷通り拡張時に西にずれて本郷三丁目交差点の東から西に移転している)。
1730(享保15)年の大火の再興の際、大岡忠相がここ以南の江戸城に近い側を土蔵造りの塗屋にすることを命じたためこれを指して「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳が残されている。この句は「かねやす」(開店当時は「兼康」。弟が暖簾分けした芝の店と元祖争いがあり、町奉行により平仮名で書くこととする裁定が下る)が江戸町奉行所の管轄範囲の北限も示しており、ここまでが所謂「江戸」であった(なお、最終的な町奉行の管轄範囲は1818(文政元)年12月に「墨引」として明確化され、北限は現在の駒込駅付近まで拡大している)。その他、当町には江戸時代・明治から営業を続ける老舗が今も多く残っている。
なお、そもそもの「本郷」について以下に詳述する。
「本江」とも書いた(砂子)。神田川北岸台地上に位置する。地名の由来は『和名抄』にも見られる湯島郷の「本郷」の意であろうという(南向茶話)。
「本郷」は戦国期に見える地名。『役帳』に小田原北条氏の臣、小机衆を引き継いだ小机城主北条氏秀(北条氏康の子)の所領として「百九十貫文 江戸本郷」と見える。なぜ氏秀が遠い江戸の地に所領を有したのかは不明。当時、当地は神田から岩槻へ向かう岩槻街道が通り、陣馬の往来も激しかったと思われる。江戸幕府開幕時の1591(天正19)年、駒込吉祥寺に徳川家康が与えた寺領寄進状に「寄進 武蔵豊島郡本郷之内五十石之事、如先規令寄付説」とあり、また同年の小石川祥雲寺宛の寺領寄進状にも5石の寄進があり、戦国期から寺社領のあったことを窺うことが出来る。
「本郷村」とは、長禄(1457~1461年)の江戸図に「本郷村」が見えるとある(江戸紀聞)。『備考』に「長禄年中の頃迄武州豊島郡峡田領本郷村と申儀承伝候得共、其後町屋に相成候儀相分不申候」とあり、詳細は不明。
撮影場所:本郷三丁目
002本郷金助町→
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