【本郷①032】駒込千駄木町
町番号:本郷①032
町名:駒込千駄木町
読み方:こまごめせんだぎちょう Komagome-Sendagichō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続 「千駄木」として
冠称:1965(昭和40)年3月31日まで「駒込」
現町名:文京区千駄木一・二、五丁目、向丘二丁目
概要:町名は嘗て当町に林があった頃、毎日千駄ずつ木を切り出したことによるという説と、栴檀の大木があったという説がある。1737(元文2)年に町屋が許され、1737(延享2)年に町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数86軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1871(明治4)年、駒込千駄木下モ町、駒込總禅寺門前(駒込總禅寺町)、駒込専念寺門前(駒込専念寺町又は駒込専念町)、駒込世尊院門前(駒込世尊町)及び上総松尾藩太田氏下屋敷を合併。1872(明治5)年の戸数165・人口606(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1880(明治13)年に下駒込村の一部を合併。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。1891(明治24)年、下駒込村字藪下の一部を合併。
団子坂にある太田氏下屋敷跡は俗に「太田の原」と呼ばれた。江戸末期から始まる団子坂の菊人形は、明治期東京の風物詩の1つであった。元文(1736~1740年)・寛保(1741~1743年)期から菊作りが始まり、文化年間(1804~1818年)に至って菊人形が作られたといわれる。菊人形は、染井・巣鴨等の植木屋によって製作されていたが、1882(明治15)年以降は都内でも団子坂の菊人形のみとなった。植梅、種半、植総、植重の4軒の植木屋が中心となり人気歌舞伎役者をモデルに菊で飾り、後年は蓄音機を使って台詞を聞かせるのが評判となった(区史)。菊人形の発展に伴い、坂上の団子屋、坂下の菊見せんべい、やぶそばが名物となった。1904(明治37)~1905(明治38)年に最盛期を迎えた団子坂の菊人形も1907(明治40)年頃、両国の国技館で電気仕掛けの菊人形が催されてから寂れ、1909(明治42)~1910(明治43)年には植木屋も次々と廃業した。団子坂の情景は二葉亭四迷の『浮雲』、夏目漱石の『三四郎』、森鷗外の『青年』、室生犀星の詩等、多くの詩文に描かれている。
当町は森鷗外・夏目漱石と関係が深く、鷗外は1892(明治25)年から1922(大正11)年に没するまで観潮楼(現在の文京区立森鷗外記念館)に居住し、夏目漱石も当町で『我輩は猫である』を執筆した。1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
1965(昭和40)年4月1日、住居表示の実施により、千駄木一・二、五丁目、向丘二丁目に編入となる。
撮影場所:駒込千駄木町
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