【本郷①048】向ヶ丘弥生町
町番号:本郷①048
町名:向ヶ丘弥生町
読み方:むこうがおかやよいちょう Mukōgaoka-Yayoichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続 「弥生」として
冠称:1965(昭和40)年3月31日まで「向ヶ丘」
現町名:文京区弥生一・二丁目
概要:1872(明治5)年、常陸水戸藩下屋敷、播磨安志藩小笠原氏下屋敷を収公して起立。町名は古くから不忍池付近の忍ヶ岡に対して「向ヶ岡」と呼ばれていたことと、旧徳川邸内の歌碑による(案内、画報)。同年の戸数13・人口64(府志料)。起立前の1869(明治2)年、新政府に収用され大学用地になった。
1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1884(明治17)年、ここの貝塚から発見された土器は町名を採り、「弥生式土器」と命名された(出土地点は不明だが、東京大学浅野地区にある弥生二丁目遺跡がそうではないかと推定されている)。
1884(明治17)年3月、当町内で縄文式土器とは異なった土器が発見され、その後全国各地から多数発見されたため、1894(明治27)年に坪井五郎博士によって発見地名を採り、「弥生式土器」と名付けられた。遺跡は当初、「向ヶ岡弥生町貝塚」と呼ばれていたが、昭和10年代から「弥生町貝塚」の呼称が一般化している。
1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。同年第一高等中学校(後の第一高等学校、現在の東京大学教養学部)が当町に移転し、文教地区の一翼を担った。
1894(明治27)~1895(明治28)年、町を南北2つに分ける新しい坂道が造られ、町の名を採って「弥生坂」と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、「鉄砲坂」ともいわれた。町名の謂れは、1828(文政11)年3月10日、水戸家9代徳川斉昭がこの辺りの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
「ことし文政十余り一とせといふ年のやよいの十日さきみだるさくらがもとにかくはかきつくこそ」と述べ、次の歌が刻まれていた。
「名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなきはなの影かな」
1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
1965(昭和40)年4月1日、住居表示の実施により、森川町の一部を編入して言問通りの南側全域が弥生二丁目、北側の東京大学農学部敷地が弥生一丁目となった。なお、同時に東京大学農学部東側一帯の住宅地(現・弥生二丁目13~20番)が根津一丁目に編入されたのだが、これに対して当該地域住民の詩人サトウハチローや法学者団藤重光、宮内庁侍医の西川義方等が「弥生土器発掘の地から弥生の名が奪われる」と反対運動を展開、行政訴訟が起こされた。その結果、1967(昭和42)年1月1日、当該地域は旧根津西須賀町の一部とともに弥生一・二丁目に再編入された。
撮影場所:向ヶ丘弥生町
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