【本所①002】本所藤代町
町番号:本所①002
町名:本所藤代町
読み方:ほんじょふじしろちょう Honjo-Fujishirochō
区分:町丁
起立:1734(享保19)年
廃止:1929(昭和4)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」
現町名:墨田区両国一丁目、横網一丁目
概要:古くは葛飾郡西葛西領の猿江村の新田開発をした紀伊の人・毛利藤左衛門の拝領地。即ち、同家の祖先が公許を得て、1722(享保7)年頃に西葛西領亀戸分の御貯材蔵跡と入堀2万5千坪余を自費で埋めて陸田とし、1726(享保11)年には御鷹場となり、「毛利新田」と名付けて移住した。しかし間もなく、材木蔵の用地として公収されることになり、1734(享保19)年10月、両国東広小路の北大川端御石置場のうちと、桐油御用達中川屋長兵衛合羽干場拝借地とを選定の上、給与された。つまり、町名由来は「藤左衛門に給与された代地」ということからである(備考)。化政期(1804~1830年)の家数33(町方書上)。両国橋の両詰は江戸一の繁華街で、本所藤代町は見世物小屋や屋台が建ち並び活況を呈していた。「本所七不思議」の1つ『片葉の葦』は両国橋袂にあった片葉堀(藤代町入堀)の駒留橋辺りが舞台。『府志料』には「藤代町入堀。第六大区六小区両国橋の北より東へ入堀にし、本所元町に止る、近方下水の落口なり、幅二間余」とある。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、久我通久邸等を併せて、町域を拡張。同年の戸数31・人口186(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。
1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環により、東両国一丁目、横網に編入となり消滅。現行の両国一丁目、横網一丁目のうち。
※『角川日本地名大辞典』では「現行の両国1丁目・横網1~2丁目のうち」とあるが間違い。
撮影場所:本所藤代町
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