【本所①004】本所亀沢町

町番号:本所①004

町名:本所亀沢町 一・二丁目

読み方:ほんじょかめざわちょう Honjo-Kamezawachō

区分:町丁

起立:1707(宝永4)年

廃止:存続 「亀沢」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区両国四丁目、亀沢一丁目、石原一丁目

概要:1694(元禄7)年に本所地割並馬場守の拝領地となり、1707(宝永4)年には本所中下水埋樋請負人等の拝領地となって町屋が許された。このときの町域は現在の両国四丁目35・36番、同30番の3ヶ所という狭い町だった(切絵図では2ヶ所)。 豊後府内藩下屋敷は両国四丁目のもと本所警察署の辺りにあった。その辺りがもともと「本所亀沢町」といわれていた。現在の「亀沢」という町名は、江戸東京博物館前にある北斎通りの両側一~四丁目で、大横川親水公園まで広がっているが、これは明治期に定められたものであって、江戸期は榛馬場(はんのきばば)の南側にあった小さな地区だった。

町名の由来は、町と対向する荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(今の墨田区立両国小学校から京葉道路辺り)に大きな池があり、そこに大きな亀がいたため、その池が「亀沢の池」と呼ばれていたことによる。池は徐々に埋め立てられてしまい、寛政期(1789~1800年)には600坪程あったが、嘉永期(1848~1853年)には全て埋め立てられてしまった。1823(文政6)年1月30日、勝海舟は、当町で生まれた(現在の墨田区立両国公園付近)。1828(文政11)年の家数107軒(町方書上)。

葛飾北斎生誕地は本所亀沢町二丁目にあった。両国東あられ本鋪両国本店のあるところである(現・墨田区亀沢二丁目15番10号)。北斎は引っ越し魔であり、生涯の内に93回も移転を繰り返した。宅前には本所南割下水が流れていた。その堀割も昭和初期に暗渠にされ、今は北斎通りと名付けられた道路になっている。当町が「本所七不思議」の1つ『津軽屋敷の太鼓』の舞台である。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、榛木馬場、森川俊方、京極高厚、内藤文成等の邸地を合併し、一・二丁目に分かれる。同年の戸数201・人口796(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。

1929(昭和4)年~1930(昭和5)年、帝都復興計画の一環により、もとの一丁目が亀沢町一丁目の一部、緑町一丁目の一部、東両国四丁目の一部に、もとの二丁目が亀沢町一丁目の一部、石原町一丁目の一部に再編される。また、1929(昭和4)年には本所緑町一丁目の一部が亀沢町一丁目に、本所緑町二・三丁目の各一部が亀沢町二丁目に、本所緑町四・五丁目の各一部が亀沢町三丁目に、1930(昭和5)年には永倉町長崎町長岡町清水町の各一部が亀沢町四丁目に、三笠町が亀沢町三・四丁目に、南二葉町が亀沢町一~三丁目に編入となり、町域を拡げた。1943(昭和18)年7月1日、東京都本所区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都墨田区に所属。

住居表示の実施により、1966(昭和41)年10月1日、一~四丁目が亀沢一~四丁目となり、二丁目の一部が石原二丁目に編入、1967(昭和42)年5月1日には一丁目の一部が両国四丁目と一丁目に編入となった。

撮影場所:本所亀沢町一丁目

撮影地:墨田区両国四丁目34番(榛稲荷神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。