【深川①048】深川数矢町

町番号:深川①048

町名:深川数矢町

読み方:ふかがわかずやちょう Fukagawa-Kazuyachō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1931(昭和6)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」

現町名:江東区富岡二丁目

概要:1869(明治2)年、深川三十三間堂町及び三十三間堂地と入船町切地、深川宮川町の一部を合併して起立。町名は三十三間堂で通し矢数を競っていたことに因む(画報)。

京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行を受けて、1642(寛永19)年11月、弓師備後という者が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる。1643(寛永20)年4月の落成では、将軍・徳川家光の命により旗本・吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初めを行った。その後、1698(元禄11)年の勅額火事により焼失したが、1701(元禄14)年、富岡八幡宮の東側に再建された。

しかし1872(明治5)年、江戸三十三間堂は廃されて堂宇は破却された。京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂等)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した。現在、浅草の地に江戸三十三間堂の守護のために建てられたという矢崎稲荷神社があり、深川には三十三間堂で武芸を磨いた名残として江東区立数矢小学校がある。1872(明治5)年の戸数61・人口117(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。川岸通りには松本、平野、神山等の材木商が集住していた(画報)。

1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、富岡町二丁目に編入となり消滅。現行の富岡二丁目。

撮影場所:深川数矢町

撮影地:江東区富岡二丁目4番8号(三十三間堂跡 旧油堀川 八幡橋東詰南側)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。