【深川①056】深川冬木町

町番号:深川①056

町名:深川冬木町

読み方:ふかがわふゆきちょう Fukagawa-Fuyukichō

区分:町丁

起立:1705(宝永2)年

廃止:存続 「冬木」として

冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1969(昭和44)年3月31日まで「深川」

現町名:江東区冬木、深川二丁目

概要:築地町24ヶ町の1つ。町名は材木商の冬木屋に由来する。切絵図には仙台堀川の南に位置し、寺裏(尾張屋板)、寺町裏(近吾堂板)と記されている。江戸期には「海辺新田」、「永代新田」と称された所。

1637(寛永10)年頃、南茅場町の材木商上田直次の三代目・冬木屋弥平次と一族の上田屋重兵衛が貯木場とするために仙台堀川の南の地を幕府から買った土地。それが1702(元禄15)年に幕府に接収されて代地が与えられたものの、貯木場には向かず、願い出て1705(宝永2)年に戻してもらい、その際に町屋を立てて、冬木屋の屋号を採り、「深川冬木町」とした。1713(正徳3)年から町奉行支配となる(備考)。当町には冬木屋をはじめ、材木商が多く居住していた。化政期(1804~1830年)の家数28軒(町方書上)。冬木弁天堂は江戸期に冬木氏が勧請したもので、邸内社であった頃から近辺の俳人岡野知十の句碑があった(画報、江東区史)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、黒鍬同心組屋敷を併合。当時の戸数56・人口283(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。

1940(昭和15)年、帝都復興計画の一環により、亀住町の一部と、万年町一丁目の全部、万年町二丁目の一部、和倉町の一部を合併し亀住町に、和倉町の一部が和倉町一丁目に、亀住町の一部、万年町二丁目の一部、和倉町の一部、冬木町の一部が合併し冬木町一丁目に、冬木町の一部、大和町の一部が合併し和倉町二丁目に、冬木町の一部、亀久町の一部、大和町の一部が合併し冬木町二丁目に、とそれぞれ再編される。しかしそれが1941(昭和16)年に再々編となり、亀住町が深川一丁目に、和倉町一丁目と冬木町一丁目が深川二丁目に、和倉町二丁目と冬木町二丁目が冬木町となる。

1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。

1969(昭和44)年4月1日、住居表示の実施により、深川冬木町全域は現行の冬木となる。

撮影場所:深川冬木町

撮影地:江東区冬木22番地31号(冬木辯天堂)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。