【深川①058】深川万年町
町番号:深川①058
町名:深川万年町 一・二丁目
読み方:ふかがわまんねんちょう Fukagawa-Mannenchō
区分:町丁
起立:1700(元禄13)年(一・二丁目)、1701(元禄14)年(三丁目)
廃止:1940(昭和15)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」
現町名:江東区深川一・二丁目
概要:元木場町21ヶ町の1つ。当初は一~三丁目があった。切絵図によると仙台堀川の南で、松平和泉守下屋敷、正覚寺、増林寺等に隣接していた。一・二丁目は1700(元禄13)年、町人に払い下げられ、町屋が建設された。三丁目南部は、1701(元禄14)年から御同朋衆、御用医師の拝領屋敷となり、残部は町人に払い下げられ、町屋となり、1713(正徳3)年に町奉行支配となる。享保年間(1716~1735年)、三丁目の一部が上地となり、麻布永坂町の代地となった。万年町のうちとして町奉行・代官両支配を受けたが、年貢は麻布永坂町の名主に差し出した。化政期(1804~1830年)の家数175軒(町方書上)。
一丁目に「直助屋敷」という俗称があった。これは中島隆碩と改名し、町医師となっていた播磨赤穂藩浅野家の浪人・小山田庄左衛門の屋敷に、1721(享保6)年に直助という盗賊が押し入ったことからその俗称名が付けられた。二・三丁目は俗に「深川七軒寺町」といった。寺院の多いところに隣接していたので「深川寺町」ともいった(備考)。享保年間(1716~1735年)から直助屋敷付近に水茶屋が始まったが、1782(天明2)~1783(天明3)年には全て引き払われた(江東区史)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、二丁目に深川海福寺門前を合併。三丁目は深川亀住町に編入され、深川万年町一・二丁目となる。1872(明治5)年、浄土宗大音山響流院正覚寺、黄檗宗永寿山海福寺、曹洞宗海照山増林寺等の寺地を合併。同年の戸数151・人口534(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。
1940(昭和15)年、帝都復興計画の一環により、一丁目の全部、二丁目の一部、和倉町の一部が亀住町に、二丁目の一部、和倉町の一部、冬木町の一部が冬木町一丁目に編入となり消滅。現行の深川一・二丁目のうち。
撮影場所:深川万年町二丁目
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